Straight ahead
果歩は手を離すと、幸樹の顔を見上げた。その通りだと思う。でも、証明する代償が大きすぎる。でも、自分が姉なら同じことをするだろうという確信があるから、どうしても止めることができないし、幸樹の心に巣を作って居心地良さそうにしている復讐心も、完全に理解できる。だから本当は、こんなところで決意を確認しても、何の意味もない。
「面会とか、毎日行くから」
果歩が言うと、幸樹はほとんど忘れていたように顔の筋肉を不器用に動かして、笑顔を作った。
「あれは月イチや」
果歩はスマートフォンを眺めた。
「わたし、もう買い物とかしたくないかも」
「欲しいから、買うんやろ?」
幸樹が言うと、果歩は首を横に振った。
「お金は有限なんやから、やり繰りミスったら、無理な瞬間が来るやん」
「でも、今のとこ大丈夫なんやな?」
幸樹が言うと、その現実的な質問が明後日の方向へ飛んでいったように、果歩は幸樹の頭のさらに上を見つめながら言った。
「大丈夫やけど、無理な瞬間を待ってる。わたしが上手くできんのやったら、お父さんとお母さんも無理なことやったんやって、納得できるし」
「お前が証明する必要はないやろ」
「そうかな? 兄妹やから、考えることは似てると思うけどな」
果歩はそう言って、スマートフォンの時計を見た。
「今川さん、ご飯遅くない?」
今川友太郎という名前は、二十三歳になってから得た新しい身分で、それまでの名前は多摩明人だった。今年で三十歳になるから、今川と呼ばれるようになってもう七年が経つ。多摩明人は、厄介な存在だった。感情の起伏に乏しく、何がしたいのか誰も理解できないまま十一歳になったとき、年下の子供を川に沈めて殺した。その感触は、新しい名前になった今でも覚えているが、最近までは相手の顔どころか性別も思い出せなかった。片手で簡単に水の中へ押し戻せたから、だいぶ年下だったとか、その程度。
医療という名目で施設に隔離され、新種の生き物のように様々なカウンセリングを受ける日々が始まった。最終的に、今川が自分でも理解できていない頭の中は『情動欠如』という四文字の漢字に当てはめられた。それから、社会復帰するための手段として職業訓練を受け、二十三歳になったところで社会に再び合流した。塗装工としては丁寧な仕事振りを評価されたが、その仕事内容は今でも退屈だ。
転機は二十五歳のときで、知り合いから妹が別れた男に付きまとわれて困っているという相談を受けた。今川は小柄で、威圧的な雰囲気は到底持っていなかったが、千枚通しでその男の股を突き刺し、失血死寸前まで追い込んだ。そこから、その知り合いを通じて様々な『ガス抜き』に参加することになった。いつの間にか町の事情に詳しくなり、塗装の依頼は増え、自分のことを考えている時間がないぐらいに忙しくなった。直接頼みごとをされることも増え、ナイフや銃といった物騒なコレクションも少しずつ増えていった。そうやって順調にキャリアを積み、ほぼ独り立ちしたころに、かつて多摩明人だった頃のことを、ふと思い出した。夜中に大きな橋の欄干から、勢いよく流れる川を眺めていたときだった。そして、確信した。あの知り合いはもう必要ないどころか、これから足手まといになると。今は静かに、同じ川の底で眠っている。
意識して何かを思い出すというのが、ずっと苦手だった。しかしここ数年は、自分が覚えていることを拾い上げて頭の中にイメージする作業が、かなり楽にできるようになっている。例えば、ある日ふと光が当たったように、当時十一歳の多摩明人が殺したのが誰だったかということを、思い出した。
名前は、多摩一花。妹で、七歳だった。
先に晩飯を食ってくると言ったのは、今でも人と向かい合わせで食事をするのが嫌いだからだ。どうしても人の口が動いている姿が目に入り、食欲が失せる。それに今は、頭に入ってきたことを不自由なく取り出せるようになった反面、その副作用で一度見た光景がいつまでも残り続けてしまう。今川は、チェーンの食堂から出てしばらくの間、日が落ちかけている町を歩き続けた。黒い雲と濃い橙色の空がまだらになって、道はほとんど夜のように暗く、街灯が早々に仕事を始めている。
噂というのは、すぐに広まるものだ。幸樹から人を探しているという相談を受けたときは、仕事が立て込んでいて正直受けられないと思ったが、話を聞いている内に面白くなった。幸樹にも妹がいる。果歩が二十歳と聞いて驚いたのを、覚えている。七歳を過ぎても生きている妹というのは、それだけで不思議な存在だ。今川は住宅街を抜けた。レンタルビデオ屋やチェーンの居酒屋がぽつぽつと並ぶ、閑散とした地域。完全に日が落ちると真っ暗で、殺風景を通り越して何もないように見える。
そんな中、数台の車がまばらに停められている砂利敷きの駐車場が見えてきて、今川は足を止めた。歩道には、人が住めるということを無理やり証明するように、排水溝を塞ぐコンクリート製の蓋が並ぶ。幸樹の頼みを聞いて、正解だった。
目の前に見えるアパートの三〇一号には、光が灯っている。
森島愛華の娘の名前は、花梨。年齢は七歳。
ジムニーの助手席で、綿野はラーメンで重くなった胃を体から引き離すように、シートに浅く体を預けた。源は、勢い余って口の中を自分の歯で噛み千切っており、塩気の強いスープを半分近く残した。綿野は反省会をするように、言った。
「あのチャーシューがな。厚すぎたわ」
全く知らない店に入った。高崎と立松に少しでもゆかりのある店は、当面入る気になれないだろう。綿野は気を逸らせるように、存在感を増しつつある源の腹を見ながら笑った。
「ラーメンに支配されとるな」
「明日には、ぺったんこじゃ」
源はそう言うと、シフトレバーを忙しなく操作して三速に入れると、エンジンブレーキをかけた。さらに二速へ落とし、砂利敷きの駐車場に前から突っ込むと、バックで転回しながら出て、排水溝の蓋の上へジムニーを停めた。
三〇一号室は、明かりが点いている。愛華と花梨には、土産用のチャーシュー盛り合わせを買った。
「花梨ちゃん、チャーシューとか食うんかな?」
綿野が言うと、源はハンドルを指でこつこつと叩きながら笑った。
「細かく刻んだら、何でも食うやろ」
平常運転のいい加減な発言に綿野は笑った。しばらくの間、オーディオから鳴っているサーチャーズの『雨に消えた想い』に耳を傾けていたが、一時停止ボタンを押すと窓を少し下ろした。車中での選曲に十年以上付き合ってきた源は、思わず目を見開いて綿野の横顔を見た。今までに、自分でかけた曲を停止させるのは見たことがない。
「ついに飽きたか」
源が見ていることに気づいた綿野は一瞬だけ視線を寄越すと、ニット帽に触れながら窓の外に意識を傾けた。
「聞こえへん?」
作品名:Straight ahead 作家名:オオサカタロウ