ピッケル
「お話ししたからと言って僕がこの状態に何をすべきかなんて言うこともわからないですし、ましてや小田さんに何かをしてほしいということもないのですが・・・白山で出会って、テレビでの記憶のお話が合って、そしてまた今日偶然にもこうして出会えたことで、思い切ってお話すべきだと思ったんです」
「そうだな、今の君の話を聞かせてもらったところで俺にはどうしようもない。記憶を返してくれとも言えない。君にしたって『はい返します』とはいかないだろう? それとも何か方法があるのかな? もしその話が真実だとしてだよ!」
「いえ、ありません。ただ話さなければと感じただけです」
小田は沈黙した。何かを考えこむように。小田は僕の突然の打ち明け話に、驚き、不審、当惑を示しはしたが、それを受け止める言動の背後には何事にも動じない肝のすわりと言ったようなものが感じられた。それは、おそらく数々の冒険での窮地を乗り越えてきた経験に裏打ちされた精神の座りと言ってもいいものだろう。僕はそんな小田の発する雰囲気に好感を持った。
しばしの沈黙の後、小田は口を開いた。「今日は突然のことだったので君の話は聞いておくだけに止めよう。明日の予定もあるので今日は早めに休みたいというのもあるし。そこで、もしよければ、日を改めて会うことにしないか? 落ち着いた場所で」
僕はどうしようか迷ったが、事の成り行きはそもそも僕から発したものであることから小田の申し出を断る選択はなかった。僕は承諾した。別れ際に小田は一言、今日はピッケル持ってきていないのかと僕に尋ねた。僕が不審げに持って来ていないことを返すと、小田は「いやいいんだ」と会話を切った。
小田との約束はゴールデンウイークの翌週の土曜日。小田が住む京都の駅ビルの喫茶店でということになった。僕はもう一度突然の話しかけを小田に詫びて談話室の炬燵を後にした。部屋に戻ると食堂から帰っていた田村は退屈そうに地図を眺めていた。僕と小田との話の内容を聞き終えた田村は、「そうか、まともに話が出来てよかったな。でも小田さんはなんでお前ともう一度会おうと言ったんかな?」と首をかしげるのだった。
翌朝7時に僕と田村が食堂に行った時には小田の姿はなかった。早くに出ると言っていたので、すでに出発していたのだろう。僕たちも朝食を済ませた後、位ヶ原の台地へ登り返し摩利支天の頂上を目指した。快晴であった。摩利支天の滑り台は思っていた通りの雪質で2人は気持ちよく滑った。斜面から眺める穂高はとても近く感じた。
京都駅ビルの喫茶店に着いたのは午前十一時の少し前だった。小田誠はすでに店内のテーブルにいた。僕はテーブルに近づき小田に挨拶をして対面に座った。そして小田と同じコーヒーを注文した。
「遠いところすまなかったね」と小田はこの前と同じ低い声で言った。
「いえ、滋賀からはすぐですよ。僕こそ、この間は済みませんでした」
互いにありきたりのあいさつを交わし、わずかな沈黙の間をおいて小田が話し始めた。
「あの記憶は君のものとして持っていてもらっていいと考えているんだ。君にしても俺にしてもどうしようもないことだしね。岳沢の滑降は今じゃ何人にも達成されているが、4月上旬の単独のものとしては希少な記録だ。それを君に差し上げよう。俺としてもよく考えたうえでの結論だ。ただ、今日君に来てもらったこととも関係があるんだが、記憶を君にあげる代わりにあの時君が持っていたピッケルをもらえはしないだろうか」小田の口から思いがけない要求がなされた。
「ピッケルですか?」僕は驚きを隠すこともできず甲高い声を上げた。
「そう、ピッケル。白山で衝突していた時、君がザックに結わえていたシモン製のピッケル。あれはフランスのシモンのものだろう? 俺は若い頃から古いピッケルを収集しているんだ。だから、大体のことは一目見ればわかる。あれはシモンだ。おそらく戦前のものだろう」
僕はシモンという鍛冶屋のピッケルの存在は知っていたが、自分のものがシモン製だとは知らなかった。メーカーの刻印がなかったからである。購入の動機はごく単純なものでそのシャフトが木製で色艶がレトロで気に入ったということだけであった。
小田は続けてこう言った。「記憶はもうすでに君のものになっているんだから、今更交換というのも君にとっては納得がいかない話かもしれないけどあれは貴重で記録的体験だ。悪い取り引きじゃないと思うんだが」
僕は迷った。ピッケル自体は、特に思い入れのあるものではなかった。高額でもなかった。ただ、他人の記憶と交換するなどというとんでもない取り引き話にどう考えてよいものか戸惑った。小田の言う通り取り引きするもしないも取り引き対象の記憶はすでに僕の中にあるのだから、と考えると迷いはより深まるのだった。僕は正義感の強い人間とはいいがたいがそれなりの良心は持ち合わせている。たとえ自分の意志ではなくアクシデントの結果として得たものであっても、他人の体験を、成果を、そして記憶を一本のピッケルと交換することの罪悪を感じない人間ではない。僕は小田が切り出した提案に逡巡しそして結論を出した。
「せっかくの小田さんの提案なのですが僕はそれに応えられません。偶然の出来事で僕はあなたの記憶をもらってしまったのですが、それを物と交換して自分のものとすることに抵抗感があります。不正で邪悪な取り引きのようにも感じるんです。もうすでに僕の記憶になっているにもかかわらずおかしなことだと思うのですが・・・」
小田は表情も姿勢も変えることなく僕の決意などには全く動じる様子がない。そして,取り引きの話を切り出した時と同じ低く落ち着いた口調で言った。
「不正で邪悪なんてあまり固く考えないでもらいたい。まるで俺が悪事を持ちかけているようにも聞こえる。衝突と記憶の転移に感じている君の俺に対する申し訳なさが軽減できる提案でもあると思うんだが。君が位ヶ原の山荘でわざわざ俺に打ち明けてくれたのはそういう気持ちがあったからなんだろう。それをチャラにすると考えればいい。それとも、あのピッケルにはどうしても譲れないという思い入れでもあるのかい?」
僕は小田の想像もしなかった強引な取引交渉に位ヶ原山荘で持った好感が薄れるのを感じた。しかし一方で取り引きに応じることで自分の中にある引け目と言ってもよい引っ掛かりを取り除くことが出来るかもしれないと考えた。そして、自分の中でその考えに結論を出す前に口を開いていた。
「わかりました。交換しましょう。僕のピッケル差し上げます」
小田は僕に礼を言った。その後の会話にはもう強引さは微塵も現われることなく山荘の時の小田に戻っていた。
ピッケルは喫茶店で聞いていた住所に送った。1週間ほどすると小田からはお礼のハガキが届いた。取り引きは完了した。