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ピッケル

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「雪が腐らない早いうちがいいと思う。位ヶ原山荘に一泊の予定で。どうやろう? 頂上の剣が峰もええけどもう一度摩利支天の滑り台を滑ってみたいんや」
「滑り台かあ・・・。乗った! 頭を切り替えんとな!」 僕はかつて田村と滑った摩利支天の斜面を思い出しながら気持ちが前に進むのを感じた。
「日程はどうする?」
田村と僕はそれぞれのカバンから手帳を取り出して日程の調整にかかった。そして、5月第一週の土日とした。

 今回の登山は、前夜発ではなく土曜日の早朝発とした。午前中に登山口に着き、その日は位ヶ原直下にある小屋泊まり。翌日稜線を目指し、昼間には登山口まで滑り降りるというものだ。小屋まではスキー場のゲレンデとその先はツアーコースとして切り開かれた斜面をひたすら登る。一旦台地状の位ヶ原まで登り、位ヶ原から緩やかな谷をはさんだ下方にある位ヶ原山荘に滑り込む予定。天候は曇り時々晴れ。位ヶ原の台地では時に濃いガスにより数メートル先も見えないホワイトアウトをもたらした。雪は昨夜に少し降ったのだろう、硬く締まった雪面に10センチほどの新雪が積り、柔らかく心地よい感触がスキー板の滑走面から伝わってきた。台地から斜面を斜めに滑り降りていると、ガスに薄れた小屋の赤い屋根がうっすらと見えてきて、2人はそこに向かって滑り降りた。
夕方の4時。小屋には十人程度の登山客がいるようだった。入口を入るとすぐにある靴置き場の棚とスキーの数でわかるのであった。僕たちはスキーを置き場に立て掛け、ブーツを脱いでその圧迫から解放された足を反らせたり丸めたりしながら小屋のスリッパに履き替えた。そして受付と支払いを済ませ談話室の炬燵にくつろいだ。この時はまだ、その後に起こる信じがたい邂逅のことなど想いもしなかったのである。

 その時はほどなくやってきた。山小屋での夕食時のことだ。テーブルの斜め前の席に小田誠が座っていたのである。なんという偶然であろうか。僕は小田から視線を外すと右隣に座った田村に動揺を抑えながら小さな声で囁いた。「小田誠や!」 田村はすぐには事態を飲み込めず、なんや?という顔をしている。僕は右手の人差し指をテーブルの下で小田の方に向けてもう一度囁いた。「小田誠がおる」
田村は気づいた。これ以上開けられないくらいまでに見開いた目をした田村は驚きを隠せない表情で返した。「本物か?」
俄かに信じがたい現実に2人は言葉を失った。僕たちは再び互いの目を見合って確認した。日焼けして目鼻立ちがくっきりとした彫の深い日本人離れした顔。白山でぶつかった時のそしてテレビで見たあの顔。まぎれもなく小田誠であった。
僕は戸惑った。もちろん、僕が持っている小田の記憶についてその後どういう行動をとればいいのか、ということだ。小田は目の前の登山客から2人目の席に座っている。話しかけるには躊躇われる位置であったし、ましてや「実はあなたの記憶の一部を僕は持っているんです」などという突拍子のない話を他の人たちがいる場で話せるような鈍感さは持たない。田村が小声で「どうする?」と平静を取り戻した低い声で訊ねてきた。僕はとりあえず食べながら考えると伝え、テーブルに用意された鹿鍋の一人用鍋の下で揺らぐ炎に目をやった。
その後2人は今日の雪の具合や明日の天気のことなどを話しながら夕食を済ませた。あえて申し合わせずとも小田の話題はしないことを了解し合っていた。夕食を食べ終わると2人の意識は小田に移っていた。
田村がまた訊ねてきた。「どうする?」 僕は食べながら考えていた「告白」という結論を田村に伝えた。
田村は言った。「この前は、もらっとけばええ、と言ったけどこんなめぐり合わせや。俺も直接話した方がええと思う。どういう結果を招くかはわからんけどな」
「そうする!」 田村の言葉で僕は腹をくくった。
「俺も同席しようか?」
僕は田村のありがたい申し出を断った。これ以上田村を巻き込むことに気が引けたし、もともと自分のわがままが招いたことだから自分で決着をつけなければと考えたのだ。もちろん決着がつけられるような話ではないことはわかってはいたが。

 小田はちょうどお茶を飲み干し湯呑をテーブルに置くところだった。僕たちは小田が席を立つのを待って席を立ち食器を片付けた。そして僕は談話室に向かう小田に思い切って背後から声をかけた。それを見ていた田村は僕たちから離れもう一度食堂の椅子に戻った。
「すみません。もしかして小田さんではないですか?」
「はい、小田ですが」と怪訝な表情の小田は返した。
「私は広瀬と申します。少しお伺いしたいことがあるのですが、そこの談話室でお時間いただけないでしょうか。ほんの少しでいいんです。」
僕は冷たく断られたらどうしようと思いながらも一歩小田に近づいた。
「まあ、いいですけど」小田は少し戸惑った表情ながらも承諾してくれた。
僕は小田を談話室のこたつに誘い丁寧に座るように促した。
「あのう、この間のテレビ番組拝見しました」
「ああ、観ていただけましたか」
「ええ、すごい登山歴というか冒険歴ですね」
「まあ、いろんなところに行ってきました。止められんのですよ冒険が。中毒のようなものです。あの番組はたまたまプロデューサーが知り合いだったこともあって出ることになったんです。テレビなんて初めてだったのでちょっと緊張していたでしょう」
「いえいえ、とても落ち着いてお話になられていたとお見受けしました。遭難すれすれの窮地での緊迫したお話にはついつい引き込まれてしまいました。」
「そうですか。それはよかった」
「それで・・・」僕は記憶の件を切り出した。
「実は、お声をおかけしたのは、少し込み入った事情があってのことなのですが・・・小田さんは、先月白山に登られましたよね」
「・・・ええ、山スキーをしてきました」
「甚之助小屋の下の斜面で他のスキーヤーにぶつかられませんでしたか?」
小田に表情に驚きが表れた。
「僕なんです」
「ああ、君か!あの時の!」
「そうなんです」

 僕は身に起こった奇妙な穂高岳沢の記憶のことをできるだけ具体的に説明しそれに伴う戸惑いや葛藤についても話した。小田は当然のことながら信じ難いことが明確に伝わってくる半ば呆れたような表情と仕草で僕の話を聞いていたが、話の内容があまりに小田の記録やその前後の状況に合致するのでその表情は不審なものへと変化していった。
「衝突したことで僕の記憶の一部が君に移ってしまったということか。信じがたいことだけど記憶の詳細は合っているようだし、当人の僕しか知らないだろうことも知っているようだ。それに君が作り話や嘘を言っているようにも思えない。・・・だけどなあ・・・」小田の表情は不審から当惑に変わっていた。そして続けた。「確かなことは、あの時抗生物質などは飲んでいなかった。それにあの斜面で何かを想いだしていたということは全くわからない。君の姿が間近になった後はもう僕は君の上に乗っていた。そして、いつからかはわからないけど岳沢の記憶がなくなった。僕としてはそれだけだ。」
作品名:ピッケル 作家名:ひろし63