ピッケル
田村は、缶コーヒーの残りを天井を仰ぐように飲み干して缶をテーブルの上に置いた。そして言った。「俺の仮説、ちょっと強引やけどよう出来てるやろ。 お前の岳沢の記憶は小田誠のものや」
僕は田村の仮説をもう一度頭の中で反芻し吟味した。しかし、当然のことながらその結果は信じがたい現象であることに帰結した。そして、田村に言った。
「お前の思い付きと仮説の説得力はたいしたもんや。でも脳神経のミラーリング機能と転移という現象の間にはあまりにも開きがあって科学的やない。俺はもう一度自分の岳沢の記憶の前後にある曖昧な部分を自分なりに分析してみてその真偽を確かめてみるよ」
「まあええ。まだおとといの今やからな。じっくりと思い出したらええ。けど、俺には自信がある。おそらく仮説は当たっていると思う」
「ああ、わかった。俺もそれはしっかりと頭に入れておくよ。 ・・・おい、そろそろ帰らないか? なんか、頭も疲れてきた感じや」
「おう、そやな。帰るとしよう。明日には身体のだるさも取れてるやろう」
そう言った田村は席を後ろにずらし立ち上がると僕も立ち上がり一緒に食堂を後にした。
僕が持っていたグラスを下唇に当てたまま動作が止まり言葉を失ったのは白山登山の1週間後にあたる土曜日の夜のことだった。自宅で夕食を終え、妻とともにテレビを見ながらハイボールを飲んでいた。テレビではドキュメンタリー番組として山岳冒険の特集がされており、厳冬期のアルプス登山や極北の冒険などの記録が紹介されていた。番組も半ばを迎えたころ、山岳冒険家の小田誠がスタジオ出演したのである。小田誠は国内外で数々の過酷な冒険をしてきた人物だ。この番組への出演自体は不思議な事ではない。僕が言葉を失ったのは、司会者が穂高岳沢のスキーでの滑降を思い立った経緯やその時の様子を聞いたことに対して放った小田の次のような答えを聞いたからであった。
「穂高岳沢のことはとても不思議なんです。全く覚えていないんですよ。この番組に出演が決まってから僕はとっておいた今までの冒険の日記にざっと目を通してみたんですが、それには詳細に穂高岳沢のものが残っているんです。2008年4月5日のことです。ちょうどその時のことが5年前の雑誌百名山『穂高岳』にも掲載されてもいるので確かなことなんですが、その時の記憶が一切ないんです。だから、ぼくはその冒険を実際の体験談として語ることが出来ないのです。」
僕は自身の力量からは到底考えられない岳沢滑走の記憶を持ち、小田誠は実際に行ったはずの岳沢滑走の記憶を失くした。しかも、一週間前僕と小田は白山のスキー登山中に衝突した。僕は視線をテレビから離すことなく持っていたグラスをテーブルの上に置き、頭の中で起きた神経細胞のショートが収まるのを待った。職場の食堂で力説する田村の顔が浮かんできた。まさか? 田村の仮説が現実味を帯びて迫る。そんなことがあるのだろうか。
僕は依然として目と耳をテレビには向けているものの、それ以降の画像と音は全くと言っていいほど認知出来ていなかった。そして、少し落ち着きを取り戻した頃、隣にいる妻に聞いてみた。「俺が穂高をスキーで滑ったっていうことを前に話したことがあったっけ?」
「穂高をスキーで?」
「うん、穂高の岳沢っていうところ。10年ほど前のことやけど」
「乗鞍や白山のことは聞いたことあるけど穂高は・・・どうかしら」
「そうか・・・」
「10年前ってあなた、その頃もうスキー登山やってたの?」
「2008年・・・そういえばちょうどスキーでの登山を始めたころ!」
僕はこの時点で田村の仮説が仮説でなくなったことを確信した。
僕はもう一度テレビ画面に注意を向けたが、すでに小田のインタビューは終わった後だった。世にも奇妙なことがあるものだ。他人の記憶がある条件下で自分に転移することがある。僕はそれを経験した。そして今、僕は他人の記憶を持っている。
「穂高でのスキーって、今テレビに出ていた人が言ってた冒険じゃない。あなたもあるの穂高で・・・」
「いや、岳沢は無理や。他の山と勘違いしたようや」 僕は妻には「事実」を話すことをためらった。
この記憶の扱いはどうしたらいいものか。他人の記憶だと分かった以上それを抱える何か気味の悪さを感じないわけではない。落ち着かなく不安でもある。ほんの一部だけど自分の中に他人がいる、という感覚すら覚える。輸血や臓器移植を受けた人もこんな感情をいだくことがあるのかな、というようなことまで空想してしまう。僕は週明けにも田村に相談をすることにした。
月曜日、出社すると田村の部屋のデスクに向かった。そして、今度は僕の方から終業後に食堂で待っていることを伝えた。その日の仕事には全く集中できず、書類や伝票は文字と数字を目で追っているだけで頭に入らなかった。早めに切り上げた僕が食堂で待った。
「おお、お待たせ」田村がテーブルに近づきながら言った。
「すまんな時間とらせて」
「いや、俺もお前に話したいことがあったから・・・」
「この前のおまえの記憶の転移仮説、当たっていたようだ。俺のあの記憶は小田誠のものだ」
「土曜日のテレビ観たのか! 俺もたまたま観ていて驚いたんだ。あの突拍子もない仮説が当たったもんやから。小田の記憶の話を聞いた時には背筋がゾクゾクしたぞ」
「どうしたもんだろう? あれが事実だと分かってから落ち着かなくてな。俺の中には他人の記憶があるんやからな」
「どうしたものでもないやろう。偶然の事故や。事故で負ったものは仕方がない。それに悪い記憶どころか栄光の記憶やないか。俺は他人だから言うけど、もらっとけばええ」
「言い切るなあ。そんなに簡単に割り切れるもんと違う。気味が悪くて落ち着かへん。小田さんに悪い気もするし」
「気味悪がることはないやろう。相手は問題なく生きているんやし、それに持っている数々の冒険記録の内のたった一つや。罪悪感なんぞ持つのはやめろ。お前のせいやない」
「ぶつかって行ったのは俺や。加害者なんや。そのうえ記憶まで取ってしもた」
「おいおい、自分を攻めるな。ぶつかったってわざとやないし、記憶も奪い取ったわけじゃない。奇妙な現象のせいや。お前に非はない。気持ち悪かったら思い出さないようにしたらええ。なんだったら、アニソマイシン飲んだらええ。探したろか?」
「いや、それはええ。ただ、思い出さないようにしようとしても雪山に入ったら否応なく思い出すかと思う。それも心配や・・・」
「ええか、記憶はもうすでにおまえ自身のものになってる。お返しするなんてことはできへんのやし、自分のものとして受け入れるしかないやろう」
「・・・そのとおりや、受け入れるしかない・・・ことはわかってる」
「まあ、しばらく落ち着かないかもしれんけど、受容するってことやな。そのうちなんでもなくなるって!」
僕は田村の言い聞かせに割り切るように努めようと思った。
「それで、田村、お前の話というのは何や?」
「ああ、ひとつは今の件や。もう一つは来月乗鞍を滑りにいかへんか、という相談や」
「5月の乗鞍岳か」