ピッケル
「そや、自覚が足りへんのやお前は・・・ところで、今お前がぶつかった人、ええっと、山岳冒険家の・・・ 小田、そうや小田誠や。あの、目鼻立ちがくっきりとした彫の深い日本人離れした顔。違いない!」
「そうかあ!俺もどうも見覚えがある人やと思ってたんや。小田誠や。」
「それにしても、大物にぶつかったもんやな、お前」
「ああ、ほんまや、ケガさせなくてよかった。結構な勢いでぶつかったからな。頑丈な人で良かった」
その後の下りは田村が先になって、別当出合いの上部までの尾根を木立を避けながら慎重に滑り降りた。市之瀬に帰り着いたのは午後4時。2人は荷物を車にしまうと駐車場の近くにある温泉宿の風呂に入って帰ることにした。
柔らかい新緑の木々が見える窓を前に2人は並んで湯船につかった。僕は大腿の筋肉を両手で揉みほぐしながら田村に話しかけた。
「まいったな、さっきの衝突。そんなに急な斜面でなかったし、あんなに広いところでピンポイントやもんな。あの時の脚は自分のやない感覚やった。あんなに足がいうことをきかんかったんは穂高の岳沢を滑った時以来や」
「・・・岳沢やて?」田村は聞きなおした。
「うん、岳沢。あれは何年前だったかな? ちょうど今頃の春のことかな? おまえに話したことはなかったっけ。奥穂高山頂から岳沢を上高地まで滑り降りたこと」
「初耳や」
「・・・そやったかな?・・・」
「みえみえの嘘はやめろ。穂高の岳沢やぞ。あんなところお前に滑れるわけないやろう」
僕は右隣の湯船に浸かっている田村に真顔を向けながら言った。
「嘘と違うって! 岳沢、確かに滑ったって。はっきり覚えとる。あの崖のような斜面と滝、それにデブリ」
「・・・」田村はあっけにとられている。
僕は続けた。 「天気は今日みたいにとても晴れていて気持ちのええ日だった。凍った雪が少し緩むのを待って穂高山荘を奥穂高頂上に向けて登ったんや。スキーブーツにアイゼンをつけて頂上まで登ったんやけど、何か所かカチンカチンに凍ったところがあって苦心した。山頂はとても見晴らしがよかったのだけは覚えてるけど、そのあとの滑り降りることに神経を集中させていたから景観はあまり思えてないんや」
「下見とかはどうしたんや?」
「下見? どうっだったかな? したかな?」
「そんな大事なことも覚えてないのか」 田村はあきれて言った。
そして続けた。「まあええ。その後は?」
「ああ。頂上からの雪渓は雪質もよくて気持ちよく滑ることができた。けど、その先がとにかく大変だった。60度近い斜面や。雪はガリガリでエッジは効かへん。それに落石がたくさん散在してた。そいつに乗らんように細心の注意を払って、思いっきり足を踏ん張ってエッジを効かせながら滑った。岳沢の中心部には扇沢大滝という滝があって、その上部は凍った急斜面で滑ることができんかったんでアイゼンに履き替えて迂回したんや。なんとか滝の中ほどまで下りてからまた滑り始めたんやけど、それがまた厳しく凍ったブルーアイスの斜面でな。でも引き返すこともできへん、もうやけくそで突っ込んだ。エッジに、どうか引っかかっていてくれよ、って言いながら滑った。脚の張りなんて感じるどころやなかった。無我夢中でこらえた。それだけやない。その滝を過ぎた後のデブリの地帯がまた難儀だった。ぼこぼこの凹凸がある氷の塊の隙間を縫うように、バランスを崩さんように注意しながらなんとか抜け出した。最後の上高地手前の斜面は緩やかで気持ちよい斜面だったけどその頃はもう脚はパンパンで、緩斜面やのに進路をコントロールできんくらいやった。」
「よう、そんなに細かいところまで話すことができるもんやな。ほんまにほんまか?」
「今言うたとおりや。鮮明に覚えてる。滑ってるときの身体の感覚もちゃんと残ってる」
「う~ん。信じられへん。話は真実っぽいけど、そもそもスキーを始めてからお前が単独で行ってたなんて初耳やし、下見のことも何年の何月かのこともはっきりせえへんのやろ!」
田村は半信半疑というより信じていないようであった。僕はそれが不満でいらだちも覚えるのであったが、冷静に考えれば田村の言う通り自分の技量からはとてもできることではないことはわかっていた。岳沢を滑るなどというとんでもないことを思いつくことも、そんな勇気もあるはずがない。どう考えてもおかしな記憶だ。しかし、身体に残っている感覚と場面ごとの心理、それらの鮮明な記憶があることは確かだ。
困った顔をした田村は言った。「記憶ちゅうものはありもせんことを自分で造ってしまうってこともあるって言うやないか。夢か何かで見たことを現実のものとして覚えこんでしまったのかもしれないな。あり得ないもの、おまえにそんなことができるなんて・・・・それにしても大それたことを覚えこんだものやな。」 その話はもうそこまでだ、と言わんばかりの言いぶりであった。
その後、2人はその話題には触れず、たわいない会話と少し熱めの湯に浸りながら疲れを癒した。
僕たちは、白山のスキー登山を終えそれぞれの自宅のある滋賀に無事帰ってきた。翌日は2人とも休日だ。丸一日身体を休め、翌々日には職場で顔を合わせた。互いに赤黒く焼けた顔はサングラスの部分を残した逆パンダ状態となっていた。一日の休日をはさんだとはいえ、前夜初の強行スキー登山の影響は2人の身体に澱のように残っていた。長く感じた一日の勤務を終える頃2人はその重さからの解放に安堵を感じるのだった。先に仕事に区切りをつけた田村が隣の部屋にいる僕のところにやってきて言った。
「終わったらちょっと時間あるか?」田村は僕の返事を待つことなく続けて言った。「食堂で待ってるわ」
ぼくは「おお」とだけ返事した。
15分ほどして食堂に行くと、田村は食堂にある5つのテーブルの一つ粗末な木製の椅子に座って缶コーヒーを飲んでいた。
「だるかったな~!」僕は田村の用件を問うことなく話しかけた。
「おう!おつかれ! 白山はよかった。登りはまいったけど天気は最高やったし、滑りも最高。また行ってみたいな」
「うん、来年かな? またこの時期にな!」 僕は田村の対面のある椅子に座りながら答えた。そして問った。「それで、なんや、用事は?」
「それや。お前がおととい言っていた岳沢の件でちょっと気になることを思い出したんや。お前と小田誠の記憶のことや」
「俺と小田誠の記憶?」
「お前、まだ岳沢を滑ったと思っとるんか? 記憶はまだあるのか?」
僕は自信がなかった。一昨日下山してから自宅に帰った後あのことが頭から離れなかったのだ。穂高岳沢での詳細で実感に満ちた記憶はその身体感覚の記憶とともに残っている。実体験としての記憶だという自信はある。だけどそんなことは不可能であることも確かなのだ。しかし、僕ははっきりと田村に言った。
「俺は滑ったよ!岳沢。確かや!」
「そうか・・・わかった。お前がそこまで言うならおまえは間違いなく滑ったんだろう。一昨日の風呂で聞いたときはばかげた話で、悪いけどお前の人格も疑ったよ。それとも妄想癖の気があったのかとも思った」