霧
男の人と別れて10分ほど歩いた。切り立った岩稜の道ももう少しで終わるだろう。片方が切れ落ちた狭い鋸の歯の切込みの底のようなところに差し掛かった時、東側の谷底からまるでもみ殻でも燻したかのような濃い霧が吹きあがり、岩稜の右側の世界が消えた。次の瞬間消えた東側の霧の闇に円形の虹が灯った。ブロッケン現象だ。その時僕は違和感を覚えた。ブロッケン現象に出会うのは初めてではない。朝夕の山稜で霧のスクリーンに自身の影が斜光を受けて後光のような虹の輪の中に映る。条件がそろわないと起きない現象だが、そう珍しいというものでもない。だがこの朝のそれは何かがおかしい。その違和感の正体がわかるまでさほど時間はかからなかった。虹の輪は光源がある東側に出来ていたからである。そして、その輪が少しづつ大きさを増して僕に近づいてきているからだ。僕はその場を動けなかった。ほどなく虹の輪は僕を飲み込むように過ぎていった。すると目の前は全面霧の世界に包まれていた。生暖かさを感じさせる濃霧は1メートル先が見えないほど濃く、僕の周囲の世界を奪ってしまった。足元の靴は何とか見えるものの踏み出すにはあまりに危険であった。僕は不安と恐怖が胸の片隅に芽生えるのを感じ立ちすくんだ。冷静になるよう自分に言い聞かせながら霧が流れ去るのを待ってみるのだが一向に晴れる気配がない。不安定な足場に立ったままであることも危険だと考えた僕は恐る恐る身をかがめて四つ這いになった。そして、手探りで何とか腰が下ろせるようなスペースを見つけて腰を落ち着けた。身の不安定さはいったん解消された。しかし、10分もしないうちにえも言われない不安感がみぞおちのあたりから胸に向かって湧きあがってくるのだった。身の安全は確保しているはずなのにその不安は強まる一方だ。不安は恐怖に近いものとなった。深呼吸を何度か繰り返しては「落ち着け!落ち着け!」と声に出して言い聞かせた。ザックから慎重に水筒を出して水を飲んでみた。その甲斐があってか動揺は少しづつ収まっていったのだが、冷静さを取り戻すうちにはたとあることに気づいたのだった。感覚がマヒしてきている。四方八方が白い闇となり冬山でのホワイトアウトと同じような状態に陥いり、上下左右が曖昧になっている。体と霧の境がなくなり霧の中で浮遊しているような錯覚まで感じるようになった。このままでは平衡感覚だけでなく、からだの位置や角度を感知する固有感覚まで異常をきたしてしまう可能性がある。そうなれば身体と意識は遊離し正気を保てなくなる。感覚不全が幻覚を生み、まずいことをやりかねない。とにかく体に入力をして感覚を働かせていなければだめだと考えた。這ってでも動くことが必要だ。僕は先の見えない登山道を前に進むことにした。想定する位置から、小屋に引き返すほうが時間がかかるし危険度も高いと考えたからであった。
僕は白い闇の中を眼前のわずかな視界を頼りに四つ這いで慎重に慎重に進んだ。岩の角の丸みやかすかな踏み跡、所によってはペンキの印が目印となった。登りはまだましだったが、下りとなると恐怖が倍増した。一向に晴れる気配がない霧の中を1時間も這い進んだだろうか。その頃には感覚不全に陥りかけた1時間前とは逆に視力は冴え、手足には鋭敏な感度が備わっているのが感じられた。人間には未経験の環境であってもそれなりに順応する潜在能力が備わっているものだ、と自身の能力に感心をするのであった。左側が切れ落ちた崖になっているだろうと推察する登山道を右側に旋回して上体を起こしてみると眼前におぼろげながら3,4本の平行の横線が現れた。鉄梯子だとわかるまでにはさほど時間はかからなかった。数年前の五竜岳からの縦走時の記憶をたどると、この梯子を登ればこのルートの難所はほぼ終えるはずだ。長い緊張と恐怖が緩んだ。両手で梯子を掴んで足をかけると、あとは駆け上がるようにして登り切った。そして、その先の岩場を登るにつれ霧は少しづつ薄くなり、視界は2メートルから3メートル、そして5メートルと開けていった。目の前の世界がどんどん開けてゆく。固まっていた心と身体が弛緩し溶け落ちていくかのような感覚が全身にしみわたっていく。とうとう霧の闇を抜け出すことができた。後方を振り返ると眼下一帯を霧がまるで生き物のようにのたうっている。そして、霧の海から突き出た岩峰はその下方から飲み込まれているかのようで、それらはやがて消化され霧の中に吸収されてしまうような幻覚に襲われる。不気味さに背筋がぞくっとした。僕は五竜岳頂上に急いだ。
五竜岳頂上は霧の世界とは対照的に澄んだ空気と見通しの良い世界が広がっていた。遠い山々の細部まで見て取れるほどに。腕時計を見て時間を確認する。12時を少し過ぎていた。ザックを背からおろし足元の一角の岩に腰を下ろして休んだ。ふと視線を上げると10メートルも離れていない岩陰にひとりの男の人が座っていた。見覚えのある服装だ。上体を起こしながら見直した。あの男の人であった。キレット小屋で隣り合わせた人、そして小屋からの稜線で追い越した赤とグレーのチェックの山シャツの男。僕は重い体を両手で支えながら起き上がり男の方へ近づいて声をかけた。
「どうも! 先ほどはありがとうございました」
男の人はこちらに顔を向けながら「ああっ!」と驚いた声をかえした。
「いやあ、参りましたね。肝を冷やしましたよ」
「霧のことでしょう」
「ええ。あんなに濃い霧は初めてですよ! いやあ怖かった!」
「ほんとですね。まったく一寸先も見えないとはああいう状態を言うんですよ!私もとにかく崖から落ちないように無我夢中で這うようにして進んできたんです」
「そうですかあ・・・でも・・・?」
「え? なんでしょう?」
「あれからいつ僕を追い越したのですか?」僕は疑問を口にした。
「あなたは今ここに来られたところですか?」その男も尋ねた。
「ええ、たった今です。ようやく霧から抜け出してここにたどり着いたばかりです」
「・・・ そうですねえ・・・あれからあなたの姿は見てないですねえ・・・」
「梯子は登りましたか?」
「梯子? いやあ、梯子なんてなかったですよ!」
「そうですか・・・」
「なんであなたより早く着いたんでしょうね?」
「・・・」僕はそれに返すことはできず、登ってきた方向に振り向いた。そして、小さく呟いた。「どういうこと?」 男にはその声は聞こえていなかったようだ。
僕はその人がルートではないところを登ってきたのだろうと考えそれ以上はたずねなかった。ただ、そうであればなおさら僕より先にここについていることが腑に落ちなかった。キレット小屋から五竜岳までのルートは一つしかないはず。あのルート以外に近道なんてあるのだろうか? それとも霧の中のどこかで追い越されたのだろうか? いやそんなことはない、狭い岩稜のルートで追いつかれれば必ずわかるはずである。すっきりとしない疑問を残しながら僕はその男に言った。「かなり神経を使ったのでもう少しここで休んでから下ります。」