霧
8月下旬、近江の平野では湿気が体にまとわりつく蒸し暑い日が続いていた。何もせずじっとしていても汗が噴き出してくる。その不快は、ただでさえ汗かきで暑さ嫌いな僕には苦痛以外の何ものでもなかった。明日は山に入る。そうすれば清涼で心地よい空気の中だ。そんな期待をいだきながら暮れ行く高速道路を一路登山口のある大町に向かった。登山口に着いたころは、もうすでに日付が変わっていた。
8月23日早朝、いつものように車内で仮眠をとり、早朝から種池山荘がある稜線にむけて柏原新道を登りにかかった。短時間ながら深い眠りが得られたこともあって、目覚めはよかった。それに夏バテ気味の重かったからだも軽くなっている。ひんやりした空気が心地よく、見上げた青空が意欲を高めてくれる。
山に入るとき、特にそれが初めての山の場合、意気込みと不安が絡まりあった妙な落ち着きなさを覚えることが多い。気が早やって体の前を気持ちが先に歩いていこうとするのだが、気持ちの底にはえも言われぬ不安が潜んでいるのも感じるのだ。気がはやるのは不安の裏返しなのかもしれない。不安は、しばらく歩いて体が温まり動きのリズムが出来てくると消えていく。そうすると気の急きも落ち着くものだ。人の心理は身体の状態で決まる。山を登っているとそのことが身をもって実感できるものだ。この日も歩き始めて20分ぐらいすると体がなじみ、心も均されていった。歩きやすい整備された道も、その後の足取りを快調にしてくれた。
稜線に上がり、種池山荘のまえで少し休憩したのち、爺が岳への稜線を歩く。振り返れば、首元に丸みのある雲が連なり浮かぶ立山の連山。青い空を背景に妙に親しげであった。山頂からは双耳の鹿島槍ヶ岳が近く、北には剱岳が大きな窓を広げ、南にははるか槍や穂高連峰まで見渡すことができた。なだらかな爺が岳の3つ目の頂を発つころ、鹿島槍ヶ岳へと続く稜線の東側の斜面に霧が湧き上がってきた。稜線まで這い上がった霧はそこで西側からの風に押し戻され稜線を超えることができない。霧は蛇行する柔らかい稜線を境に世界を2分した。明確に存在する現実の世界と実在の曖昧な白い世界。縦走の山旅で出会う僕の好きな景観である。僕は2つの世界がせめぎ合う淡いをたどり鹿島槍が岳を目指した。足取りはますます弾み、思いのほか早くに双耳峰の南峰に到着、休憩もそこそこに吊り尾根を経て北峰の頂に立った。霧の晴れ間には北方に連なる五竜岳から白馬方面の展望が開けた。宿泊予定のキレット小屋までは急峻な下りである。山頂で十分に足を休めた僕は八峰キレットの核心部を慎重に下って小屋にたどり着いた。
夏山のピークも過ぎ小屋は静かであった。宿泊者は10人程度で年齢層は自分と同じくらいかそれ以上であったように思う。夕食後、食堂では数人の男女が明日の天気予報を確認するためにテレビを観ていた。ニュースの後半に出された予報は、午前は雨で午後は晴れるとのものだった。午前の雨は強く降るとのことだった。滋賀を出る前の予報では明日の信州方面は曇り時々晴れであったので安心した。テレビを見ていた人たちはなんとなく表情が曇りがちで一人また一人とテレビの前を離れていった。
寝床は宿泊者が少ないこともあってゆったりとしていた。僕が指定された場所は2段づくりの下段の壁際で、右隣には僕より少し年上かと思われる赤とグレーのチェックの山シャツを着た男の人が寝ることになった。男の人は僕より先に寝床に戻っていて、マグカップでウイスキーのお湯割りを飲んでいた。僕は重ねてあった布団を敷きその上に胡坐をかいて地図を広げ明日の行程の予習にかかった。すると隣の男の人から話しかけてきた。「今日はどちらから?」
「扇沢から爺が岳をこえてきました」と僕は返した。
「へえ、かなり歩きましたね。僕は冷池山荘からですよ。あなたの半分くらいかな?」
男の人は感心した表情で続けた。「それで、明日はどこまでですか?」
「唐松岳まで行って、八方尾根を下る予定です」
「それはそれは長丁場ですね。健脚だ! 僕は唐松岳頂上山荘にもう一泊します。明日もまあゆっくり歩きますよ」
「そうですか。午前中は雨に降られそうなので五竜岳までのキレットの残りがちょっと心配ですね」
「そうですね。雨が止んでから出られればいいんだろうけど、五竜岳から唐松岳頂上山荘までもそれなりに距離があるからそうもいかないしね。あまりきつく降らないことを願って早めに出ますよ」男の人は自分に言い聞かせるかのようにそう言ってウイスキーを一口飲んだ。
2人の会話はそれだけだった。僕は地図たたんでウエストポーチにしまうと布団に横になった。睡眠不足と疲れのせいだろう、いつの間にか眠りこんでいた。目が覚めた時は5時を少し回っていた。部屋の窓にはもう朝の光が当たっている。隣の男の人はすでに布団にいなかった。
朝食前に外に出て空を見上げた。空は青く、きりっと冷えた空気の中朝日が岩稜を照らしていた。天気予報ははずれた。
食堂に行くと、隣に寝ていた男の人はすでに朝食を食べている。顔が合ったので軽く会釈し、開いていた隣の席に座った。
「天気予報はずれてよかったですね?」僕から話しかけた。
「ほんとに! 見事なハズレだ! キレットの残りも安心です。これ食ったら早々にも出発しようと思います」 明るい声と表情で応えた男の人は視線を僕から離し箸を進めた。
朝食を済まし部屋に帰ると、入り口で隣の男の人とすれ違った。
「お先に!」「お気をつけて!」2人はお決まりの言葉を交わして別れた。
僕が小屋を出たのはその人が出発してから20分は経っていただろうか。僕は朝食後のゴールデンタイムですっきりしないと一日お腹の不調を引きずることが多いため小屋泊まりでは出発を急がないことにしている。切り立った岩場でもよおしても大変だ。
小屋の戸口を出ると西の青空の下には雲海が広がっていた。朝食前のひんやりした空気はすでに温かみを帯びたものに変わっていた。今日は歩き始めから慎重な足の運びが求められる。昨日のキレット核心部ほどではないにしても切り立った狭い岩場がしばらく続くのだから気を抜けない。僕はところどころに出くわす難所では足の置き場に注意しながらバランスを崩さないように登って行った。小屋を出て20分もした頃だろうか、一人の男の人に追いついた。遠目にもはっきりとわかる赤とグレーのチェックの山シャツ。あの人に間違いない。男の人は後ろから僕が近づくのに気づいていたようで、急な斜面をトラバースする道の手前にある少し平らなスペースで僕に道を譲ってくれた。
「すみません。ありがとうございます」と僕がお礼を言うと
「やあ、やっぱり健脚だ。速いですね」と感心しながら返した。
「雨が降らなかったので足取りが快調ですよ」
「私はゆっくりマイペースで行きます。お先にどうぞ」
「ではお気をつけて」と、僕は道をあけてくれた男の人の前を失礼して先を急いだ。
8月23日早朝、いつものように車内で仮眠をとり、早朝から種池山荘がある稜線にむけて柏原新道を登りにかかった。短時間ながら深い眠りが得られたこともあって、目覚めはよかった。それに夏バテ気味の重かったからだも軽くなっている。ひんやりした空気が心地よく、見上げた青空が意欲を高めてくれる。
山に入るとき、特にそれが初めての山の場合、意気込みと不安が絡まりあった妙な落ち着きなさを覚えることが多い。気が早やって体の前を気持ちが先に歩いていこうとするのだが、気持ちの底にはえも言われぬ不安が潜んでいるのも感じるのだ。気がはやるのは不安の裏返しなのかもしれない。不安は、しばらく歩いて体が温まり動きのリズムが出来てくると消えていく。そうすると気の急きも落ち着くものだ。人の心理は身体の状態で決まる。山を登っているとそのことが身をもって実感できるものだ。この日も歩き始めて20分ぐらいすると体がなじみ、心も均されていった。歩きやすい整備された道も、その後の足取りを快調にしてくれた。
稜線に上がり、種池山荘のまえで少し休憩したのち、爺が岳への稜線を歩く。振り返れば、首元に丸みのある雲が連なり浮かぶ立山の連山。青い空を背景に妙に親しげであった。山頂からは双耳の鹿島槍ヶ岳が近く、北には剱岳が大きな窓を広げ、南にははるか槍や穂高連峰まで見渡すことができた。なだらかな爺が岳の3つ目の頂を発つころ、鹿島槍ヶ岳へと続く稜線の東側の斜面に霧が湧き上がってきた。稜線まで這い上がった霧はそこで西側からの風に押し戻され稜線を超えることができない。霧は蛇行する柔らかい稜線を境に世界を2分した。明確に存在する現実の世界と実在の曖昧な白い世界。縦走の山旅で出会う僕の好きな景観である。僕は2つの世界がせめぎ合う淡いをたどり鹿島槍が岳を目指した。足取りはますます弾み、思いのほか早くに双耳峰の南峰に到着、休憩もそこそこに吊り尾根を経て北峰の頂に立った。霧の晴れ間には北方に連なる五竜岳から白馬方面の展望が開けた。宿泊予定のキレット小屋までは急峻な下りである。山頂で十分に足を休めた僕は八峰キレットの核心部を慎重に下って小屋にたどり着いた。
夏山のピークも過ぎ小屋は静かであった。宿泊者は10人程度で年齢層は自分と同じくらいかそれ以上であったように思う。夕食後、食堂では数人の男女が明日の天気予報を確認するためにテレビを観ていた。ニュースの後半に出された予報は、午前は雨で午後は晴れるとのものだった。午前の雨は強く降るとのことだった。滋賀を出る前の予報では明日の信州方面は曇り時々晴れであったので安心した。テレビを見ていた人たちはなんとなく表情が曇りがちで一人また一人とテレビの前を離れていった。
寝床は宿泊者が少ないこともあってゆったりとしていた。僕が指定された場所は2段づくりの下段の壁際で、右隣には僕より少し年上かと思われる赤とグレーのチェックの山シャツを着た男の人が寝ることになった。男の人は僕より先に寝床に戻っていて、マグカップでウイスキーのお湯割りを飲んでいた。僕は重ねてあった布団を敷きその上に胡坐をかいて地図を広げ明日の行程の予習にかかった。すると隣の男の人から話しかけてきた。「今日はどちらから?」
「扇沢から爺が岳をこえてきました」と僕は返した。
「へえ、かなり歩きましたね。僕は冷池山荘からですよ。あなたの半分くらいかな?」
男の人は感心した表情で続けた。「それで、明日はどこまでですか?」
「唐松岳まで行って、八方尾根を下る予定です」
「それはそれは長丁場ですね。健脚だ! 僕は唐松岳頂上山荘にもう一泊します。明日もまあゆっくり歩きますよ」
「そうですか。午前中は雨に降られそうなので五竜岳までのキレットの残りがちょっと心配ですね」
「そうですね。雨が止んでから出られればいいんだろうけど、五竜岳から唐松岳頂上山荘までもそれなりに距離があるからそうもいかないしね。あまりきつく降らないことを願って早めに出ますよ」男の人は自分に言い聞かせるかのようにそう言ってウイスキーを一口飲んだ。
2人の会話はそれだけだった。僕は地図たたんでウエストポーチにしまうと布団に横になった。睡眠不足と疲れのせいだろう、いつの間にか眠りこんでいた。目が覚めた時は5時を少し回っていた。部屋の窓にはもう朝の光が当たっている。隣の男の人はすでに布団にいなかった。
朝食前に外に出て空を見上げた。空は青く、きりっと冷えた空気の中朝日が岩稜を照らしていた。天気予報ははずれた。
食堂に行くと、隣に寝ていた男の人はすでに朝食を食べている。顔が合ったので軽く会釈し、開いていた隣の席に座った。
「天気予報はずれてよかったですね?」僕から話しかけた。
「ほんとに! 見事なハズレだ! キレットの残りも安心です。これ食ったら早々にも出発しようと思います」 明るい声と表情で応えた男の人は視線を僕から離し箸を進めた。
朝食を済まし部屋に帰ると、入り口で隣の男の人とすれ違った。
「お先に!」「お気をつけて!」2人はお決まりの言葉を交わして別れた。
僕が小屋を出たのはその人が出発してから20分は経っていただろうか。僕は朝食後のゴールデンタイムですっきりしないと一日お腹の不調を引きずることが多いため小屋泊まりでは出発を急がないことにしている。切り立った岩場でもよおしても大変だ。
小屋の戸口を出ると西の青空の下には雲海が広がっていた。朝食前のひんやりした空気はすでに温かみを帯びたものに変わっていた。今日は歩き始めから慎重な足の運びが求められる。昨日のキレット核心部ほどではないにしても切り立った狭い岩場がしばらく続くのだから気を抜けない。僕はところどころに出くわす難所では足の置き場に注意しながらバランスを崩さないように登って行った。小屋を出て20分もした頃だろうか、一人の男の人に追いついた。遠目にもはっきりとわかる赤とグレーのチェックの山シャツ。あの人に間違いない。男の人は後ろから僕が近づくのに気づいていたようで、急な斜面をトラバースする道の手前にある少し平らなスペースで僕に道を譲ってくれた。
「すみません。ありがとうございます」と僕がお礼を言うと
「やあ、やっぱり健脚だ。速いですね」と感心しながら返した。
「雨が降らなかったので足取りが快調ですよ」
「私はゆっくりマイペースで行きます。お先にどうぞ」
「ではお気をつけて」と、僕は道をあけてくれた男の人の前を失礼して先を急いだ。