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「そうですか。私ももう少ししてから降りることにします。」男は僕が声をかける前に眺めていた景色のほうに向き直った。しかし、もう一度僕のほうに向き直り言った。「そう言えば霧が立ち込めてきたとき、目の前に丸い虹が出来てその中をくぐったんですけど、あれは実に奇妙な体験でしたよ」
「ええ!あなたもブロッケンをくぐったんですか? 僕もですよ! それにしてもあんなことがあるんですね」 驚きを隠さず僕は返した。
「ええ、ほんとに不思議です。ああ!まさか? これはひょっとして私の方が先に着いたことと関係があるのですかね?」
「う~ん・・・・」僕は返す言葉が出なかった。
男と僕はしばし無言のまま向き合っていたが、お互い首傾げながら会話は閉じた。
僕は少し離れたところに腰掛けるのにちょうどいい岩を見つけ、ザックから昼食用のパンとソーセージ、それにお湯を入れたサーモスを取り出した。あまり食欲があったわけではないが半ば義務的にパンとソーセージを口に押し込みコーヒーで流し込んだ。それでも少し落ち着いたようだ。さらに脱力していくのが分かった。そして、眠気を感じた。気が付くと持っていたカップを落としていた。わずかだけど眠ってしまったようだ。あくびが出た。そして一度大きく伸びをしてからザックから出していたものを片付けた。ふとあの男のほうを見ると彼はまだ岩場に座ったままだ。後方の岩に背を持たせかけている。彼もまた居眠りをしているのかもしれない。よほど疲れたのだろう。
ザックを背負った僕は頂上を降りることにした。予定では唐松岳まで行って八方尾根を降りるつもりであったが、霧での精神的消耗が激しかったので唐松岳頂上山荘でもう一泊することにした。
「お疲れ様です。それじゃ、先に下ります」
男は驚いたように反応し「はあっ」とだけ発した。やはり眠っていたようだ。
男は腕の時計に目をやって「私もそろそろ下ります」と答え立ち上がる動作に入った。
時間はまだ早かったので鞍部にある五竜山荘まではゆっくりと下った。余裕があったというよりも安堵と脱力からか足の運びに力が入らないのでゆっくりにならざるを得ないというのが実情であった。
五竜山荘には1時間もかかった。それから唐松頂上山荘まではあまり起伏はないものの所どころ岩場の稜線を2時間ばかり歩かなければならない。依然力の入らない体を気持ちでひきずるように五竜山荘を後にした。唐松頂上山荘手前の岩稜帯を登りきった時、すでに4時をまわっていた。山荘泊まりにして正解であった。疲労はほぼ限界に来ていた。今まで山で味わってきたものとは違い、体の芯と全身の神経がその自律性を失って体の機能が不全状態にあるかのような疲労感であった。
山荘の入り口で後方の人の気配に振り返るとあの男の人がいた。極端にペースの落ちた僕に追いつくにはさほど急ぐこともなかったであろう。僕は予定を変更してこの山荘に泊まることにしたことを男に話し、一緒に戸口をくぐって小屋に入った。2人は受付で宿泊伝票を受け取り所定の記入事項を記した。氏名、住所、前泊地、そして明日の予定。最後に今日の日付の記入をし、受付の女性に手渡した。受付の女性は票に目を通して宿泊料金を僕に伝えながら言った。「日付が違っていますね。8月24日になっていますので直しておきます」そして、日付欄の24に線を引き25日と直した。
僕は疲れてぼんやりした頭で日にちの確認をした。23日に登り始めてキレット小屋で一泊。なので今日は24日。 「いやいや、今日は8月の24日ですねよ」 僕は受付の女性に言った。
「いえ、今日は25日です」 彼女は優しい声ではあるがきっぱりと言い切った。
「そんなはずは・・・」
「今日は25日に間違いはありません。お客さん、昨日はキレット小屋で足止めだったのでしょう。」と女性は宿泊票のルートを確認しながら言った。そして「昨日は朝からとんでもない暴風雨でしたものね。あんななかキレットを歩くなんて自殺行為ですから」と微笑みを僕に向けるのであった。
僕はウエストバッグから財布を取り出そうとしていた手を止め、混乱のうちに立ったまま固まっていた。そして、財布を取り出す動きに戻ろうとした瞬間、「そうだ」とばかりに、左隣にいる一緒のルートをたどってきた男に目をやった。しかし、男の表情にも明らかなと戸惑いが表れていた。男も書き終えた宿泊票を見つめた状態で動作が止まっていた。僕は男の宿泊票を覗き込むようにして見た。日付欄には8月24日と書かれていた。そしてもう一度受付の女性のほうを見やったのだが、同時に女性の背後の壁に吊るしていた日めくりカレンダーの数字も目に入った。25日。僕は目の前が真っ白くなり意識が遠のく感覚を覚えた。まるで今朝の濃い霧のように。
作品名: 作家名:ひろし63