京都七景【第十六章】
それに、学生さんたちに決して悪気がなかったことは、よくわかる。自分も1960年代に大学で学んだ者として、フランスの哲学者サルトルの著作は、『嘔吐』に限らず、先を争って読んだものだ。きみも哲学に興味があるなら、『嘔吐』を読んでみるといい。哲学と言っても小説だし、名著だから、きっと何か得るものがあるはずだ。あの学生さんたち、ちょっと常識に欠けているように見えて、けっこう真面目な人たちなんじゃないかな》って言うんです。
わたし、それを聞いて、ああ、また早とちりしたなと恥ずかしくなって、落ち込んでいたんです。でも、今日、お詫びができてほっとしました。あのときは気が利かなくて本当にすみませんでした」店員さんは、また、深く頭を下げた。
「いやあ、あなたが謝ることないですよ。悪いのは僕たちですから。でも、店長に弁護していただいたのは、うれしいですね」
「そのことで、一つ、個人的なお願いがあるんです。図々しいと思われるのは覚悟しています。どうか聞いていただけませんか?」と、ここまでが、あのとき露野が客観的情報として語ったことだ。
その先の会話を、生き生きとしたやり取りにして蘇らせられるのは、残念ながら、露野とその女性しかいない。ところが、その生き生きとしたやり取りこそ、俗なぼくたちの聞きたいところなのだ。
ならば、ここは真打に、ちょっと登場願って、直(じか)に語ってもらうのが最善の策だと思う。ということで、ここからは露野にバトンタッチさせてもらうよ、何しろ二人にしか分からないことだからね」
「うむ、それは確かにその通りだけれど。でも、あのときの話に、あまりつけ加えることはないと思うよ。ただし、一つだけお願いしたいことがある。あのときは、あの女性を、お互い、あの店員とか店員さんと呼んでいたけれど、幸いにも知り合うことができたので、親しみを込めて、彼女とか、あの女性と呼び換えて話しても、いいだろうか?」
「彼女か…、なんかいい響きだな。もちろん、いいさ、いいに決まっている」と、黙っていた堀井が珍しく声をあげた。みんなも、すぐに肯いた。
「では、話を受け継ごう。彼女の依頼は、俺たち『嘔吐』の読書会を立ち聞きさせてもらえないかということだった。実は、彼女は哲学が好きで、大学の哲学科に入って倫理学の研究をしたかったそうだ。ところが彼女の父親は、女が哲学などやって理屈っぽくなったら嫁の貰い手がなくなるからやめろと大反対した。母親も反対だった。女の子は、短大の英文科くらいを出て、それから、料理や、茶道、華道の嗜みがあれば十分、あとは夫に愛され子供たちを立派に育て上げるのが女の幸せだと考えるような人だった。はっきりとは言わないが、彼女は、どうも、そういう両親を持つ、地方の素封家の出身のように思えた。
それでも、どうしても哲学が学びたいと言って猛然と反抗はしたものの、それなら学資は出さないから好きにしろと言われて、彼女は泣く泣く地元の短大を卒業した。その頃から、親の言う通りに人生を歩むのではなく、どんな苦労をしても自分の納得の行く人生を歩もう、そう心に決めていた。
まずは、とにかく経済的自立を果たさなければならない、そう考えて、将来有望な情報処理を学ぼうと家出同然にして京都に出た。京都は日本で最初の情報処理専門学校が創設された場所だからな。沁々堂で学費の不足を補うアルバイトをしているのも、学校が百万遍に近くて交通費がかからないからだ。そうして、情報処理の勉学に励んでいるとき、我々の『嘔吐』にぶつかったというわけだ。
それから後のことは、さっきの神岡の話でわかったと思う。つまり、店長から、『嘔吐』を読むことを薦められたことで、再び、哲学研究へのかつての情熱がふつふつと燃え上がったのだ。
みんな、きっと二つ返事で承知してくれるだろうと、俺は請け合った。ま、思った通りでよかったよ。でも、実行までには、まだ、いろいろ解決しなければいけない問題が、予想された。
まず、第一の問題は、我々の声がきちんと聞こえるかということだった。これについては、耳はいい方で小さな声でもよく聞こえるし、ウェイトレス溜まりは、入り口近くのレジの前、つまりそこは、神岡の背中のすぐ後ろ側だし、少し先には、俺と大山が横並びに座っている場所でもあるから、静かなら(そして人の出入時以外なら)問題はなかった。
第二の問題は、たとえ我々の会話がよく聞き取れたとしても、仕事中は、溜まり場を離れているわけだし、また、たとえそこにずっといることができたとしても、テキストのどこの話をしているかが分からなければ、内容について行くことはできない。これに対して、俺は、テキストの日本語訳を買うように勧めた。もちろん、自分のものをお貸しましょうかと提案したが、先に最後まで読んでおきたいから、自分用の本を用意したいという。
そうすれば、どこを問題にしているのか、すぐに想像がつきますし、きっと何度も読み返すことができるでしょうから。
幸い、大学から歩いて四、五分の喫茶店なので、大学の書籍部を紹介し、人文書院版サルトル全集の『嘔吐』ならいつでも棚に揃っていることも伝えておいた。彼女はその次の週には買い揃えて、三分の一くらいまでを読み進めていた。すでに模範生だった。
第三の問題は、読んでいる場所が分かり、何を議論しているのかが理解できても、なぜそこが問題として取り上げられているのか分からない場合があるかもしれない。また、読んでいて自分で納得のいかないことが出てきたらどうするのか。それについては、時間に余裕のあるときに、自分、つまり、露野に質問するということで了解してもらった。
このような経過を経て、オブザーバーのいる読書会が、店長の預かり知らぬところで開始された。俺が言えるのはここまでかな」
「最初のときより、説明が詳しくなったな」と大山が何気なさそうに言った。
「後から分かったことも含めたからね」と、露野も何気なさそうに言った。
「そのあと、どういった感じで読書会は進んだんだい?」と、ようやく眠気が吹き払われたのか、堀井がすっきりした顔と声で訊ねる。
「じゃ、そこからはまた、僕がバトンタッチするよ」と、神岡が、話の遅れを取り戻すように早口で言った。
「次の週から、いよいよ、彼女を加えた読書会が始まった。とはいえ、人の配置から言えば、取り立てて新味はない。過去二回と同様、ぼくらの席も同じなら、彼女の立ち位置も一歩と変わりなかった。
しかし、上辺はいくら同じでも、心の中は、彼女の参入によって、各自度合いに応じて変化が起きているから、ふだんの顔にはない妙な緊張が走っている。今思うと、何だか、『嘔吐』の主人公の違和感を地で行っていたのかもしれない。
ぼくたちはこんなふうに読書会を進めることにした。まず、各自が原書の担当部分を訳読し、そのあと、意見や説明を述べるという順序を繰り返す形式だ。そうすれば、今何をしているのか、おおよその見当がつく。さらに「訳読するよ」とか「これは意見だが」「説明してほしい」などと前置してから言い合うようにすれば、内容の取り違えを防ぐことにもなる。この手順は、彼女にあらかじめ知らせておくことにした。
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学