京都七景【第十六章】
きりっとした輪郭の中に、やや怒りを含んだ形のよい眉、悲しみを映す瞳、憐みの微笑を残す口もとがよく調和して、格別な優しみを湛えている。そんな大げさなと言う人もあるだろうけれど、おいそれと声をかけられる表情ではない。僕も、露野と大山が声を失っているらしいのを見て、自分の印象の正しさを確認したほどだ。
とにかく、人から声を奪うような、あるいは畏敬の念を起こさせるような、その表情を見れば、もはや拝むしかないという気持ちが、どうしようもなく生まれてしまう。例えるなら、個人的には、中宮寺の弥勒菩薩を想像してもらうのが一番よいと思う。
僕たちは、黙って顔を見合わせていた。わずかだが、時間が一時停止したように思う。その中から、露野が急に、我に返ったように顔を上げ、小さい声で言った。
「すみません。これからは気をつけます」
店員は、すっと深く頭を下げて向きを変えた。それを見計らった店長が遠くから、その店員を招くような仕草をしたので、店員は店長のところまで行って、少し話しこむ様子だった。店員の背中に揺れる一筋に束ねた髪が、ひときわ、印象に残った(ここは僕の感想)。
僕たちは、口に出してはいけない体験をしたような気がして、その日の残りは、何だかこそこそと読み合わせをして第一回目を終了した。これからも、こんな雰囲気のまま読書会が続くのかもしれないと思うと、いかに女性店員が美形だとはいえ、おそらく三人とも気詰まりがして、帰る足取りが重くなっていた違いない。ま、その後、そのことを確かめるチャンスはなかったけれどね。それもそのはず、その後の読書会から、僕のそんな予想は大いに裏切られてしまったのだから。
まず、何が裏切られたといって、これほど天候に裏切られた読書会はなかった。何せ、読書会の期間中に五回も雷雨に祟られたのだ。もちろん、喫茶店の中で実施しているのだから、雨に濡れることはないが、雷鳴には、どうにも対処ができなくなる。初めに、遠くで小さく、ごごう、ぐぐぐぐ、と鳴っているうちは、何の問題もないのだが、今年はどうやら出町柳から北白川あたりまでの今出川通り周辺が雷雲のコースに当たっていたらしく、見る間に暗雲が押し寄せ、電光が真っ白に閃き、直後にゴロゴロ、ピシャーンだのドカーンだのと雷鳴が頻繁に鳴り渡り、その都度、すぐ脇の窓ガラスがビリビリ震動して、生きた心地がしない。少し、雷鳴が治(おさま)りかけたかと思うと、今度は大きな雨粒がびしびしと窓を叩くから、どうしたって互いの声は聞き取れないし、何かを深く真剣に考えようなどという気持ちは一瞬にして消し飛んでしまう。後は、ただひたすら、両手で耳を押さえて、雷雨が過ぎるのを待つだけだ。
それでも、人は何かを考え出すものだな。僕は感心した。他の客の様子を見ていると、ぽつぽつ、立つものがある。ええ!こんなときに帰る人間がいるのか、ずぶ濡れになるぜ、と訝ったが、そうではなかった。中庭に面したガラス戸を開けて、一人入って来ると、すぐ一人が出てガラス戸を閉めている。外では稲妻が光るものの、雨はまだ小降りのようだ。何をしているんだろうと思った瞬間に、はっと状況が呑み込めた。
トイレに行ってるんだ。利用したことがないと分からないだろうけど、沁々堂には方形の中庭があって、それに面していくつか席も設けられている。その一角にトイレがある。
なるほど、うまい時間の使い方だ、空気も冷えてきたし、雷雨が去って緊張が解ければ、男女各一つしかないトイレは、きっと混むに違いない。今のうちに用を足しておくのは実に賢明な処置といえる。二回目の読書会で最初の雷雨にあったとき、その事に気づいてから僕たちもトイレに行くことにした。
僕が行き、大山が行き、少し遅れて、露野が行った。一人ずつのトイレだから、どうしても待つのに時間がかかる。露野がガラス戸の外に出たあたりから、雨脚が強くなってきた。まあ、ガラス戸からトイレまで庇はないが、距離は五メートルとないから大丈夫だろうと、心配はしないでいた。
ところが、いつまで待っても露野は戻って来ない。しかも、雨はどんどん本降りになって、ざあざあと音を立て始める。仕方なく様子を見ようと席を立ったそのとき、ガラス戸が開いて、例の女性店員が、外の席の片づけ物をトレイに載せて現れた。そのすぐ後から、露野の姿が続いた。
露野は、やはり間が悪かったと見えて、頭と両肩から雨が滴っている。大股でこちらに来ると、足元にあった自分の大きめのバッグを開け、中からバスタオルらしきものを取り出して、ひとしきり、頭や肩やその他、濡れたところをごしごし拭いてから腰を下ろした。
「驚いたな。いつも、そんなものをバッグに入れているのか?」と、そのとき僕は尋ねた。
たしか、露野はこう答えたと思う。
「人生、いつ何が起こるか分からないから、用意万端にしとかないとね」
あのときは、ずいぶん大げさな物言いをすると思ったが、露野の告白を聞いた今では、その気持ちが痛いほどわかるよ。
ま、それはさておきだ。露野はバスタオルを畳んでバッグに入れると、今度は顔を輝かせて話し出した。
「戻って来るのが少し遅れただろう? 実は、トイレから出ると、雨が激しくなっていてね。これじゃ、店の入り口まで戻るだけでも、けっこう濡れてしまうなと判断し、小降りになるまで待とうと、雨のかからない軒下を見つけて、たたずんでいた。すると、ガラス戸が開いて、この間の店員さんが、さっきまでいた客の食器類を、急いで片づけ始めたじゃないか。この雨の強さと食器の数から考えて、ずぶ濡れになるだろうなと思ったから、この前の一件で気遅れはあったものの、そばに行って一緒に片づけ始めたんだ。初めはびっくりして手を止めたけれど、すぐにこちらの意図を察して、「すみません。お願いします。」と言って、にっこり笑った。
俺は、片づけ終わると、そのまま、すぐ戸口へ戻ろうとした。ところが例の店員さんは、「あのう…」と言いかけて、片づけものの載ったトレーを抱えたまま、雨を避けるように軒下に入って、手招きをした。俺は、また何か失礼をしたのかもしれないと、戦々恐々の面持ちで近づいた。店員さんは、
「本当にありがとうございました。助かりました」と丁重に礼を言って、深く頭を下げた。俺はこの機会に、この前のことをきちんと謝っておいたほうがいいのではないかと気がついた。
「こちらこそ、先週はすみませんでした。場所柄も弁えず、非常識な言葉で皆さんを不快な気分にさせて、申しわけありません」
「ああ、そのことでしたら、もういいんです。お気になさらないでください。実は、あのあと店長に呼ばれて諭されました。《きみがしたことは決して間違ってはいないけれども、ここは、開店以来長らく、大学の教官や学生さんたちから研究や談笑の場として親しまれ、それが店の存在理由の一つにもなっている。だから今後何か問題が起こりそうなときは、起こる前に、まず店長に知らせてほしい。自分が何とかするから。
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学