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京都七景【第十六章】

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 ただし、彼女がちゃんと聞きとっているかについては、確かめないことにした。初めは、その都度、彼女の表情を伺ったが、顔を同一方向にむけたままでいることは、職業柄不可能なのだ。喫茶店の店員は、気を働かせて咄嗟の行動に移らなければならない。それが信条だ。
 だから、彼女の動作を見ていると、顔をあちらこちらとよく動かしている。そんな時でもどちらかの耳は、ぼくたちの方行に向いて話を聞いている。それがどこまで実現できているかは別にして、僕は彼女の高い向学心と強い自制心に心動かされた。そうして、時折こちらに巡ってくる、憂いを含んだ尊い顔立ちに、心洗われる思いがした」
「でも、それだと、彼女の意見や質問を読書会に反映させるのは、難しかったのじゃないか?」とわたしが素朴な質問を発する。

「もちろん、そこが一番問題だった。でも、彼女は、まず、哲学を読む雰囲気に浸りたかったのだと思う。読書会がある時間帯には、できるだけこちらを見ないようにしていたけれど、お冷やを注ぎに来る回数は一、二回ふえて、どこやらうれしそうな表情が伺えたからな。
 そう言えば、こんなことがあった。それは、ちょうど露野が、本文を訳読している最中だった。

《金曜日。三時。三時というのは、人がしようと思っているあらゆることにとって、つねに遅すぎるか早すぎるかだ。午後の奇妙なひととき。今日は、それが我慢できない》

彼女は、グラスに水を注ぎ足しながらこんなことをつぶやいた。
「変ですね。今三時少し過ぎだから、だいたいこの小説と同じ時間帯でしょうけど、わたしなんか、アルバイトで忙しく右往左往しているのに、こんなふうに言い切ってしまっていいんでしょうか?この人、ずいぶん時間を持て余しているみたいですね。
 三時はおやつでも食べて休んでいなさいという意味なのかしら?でもそれって、生活に余裕がないとできませんよね。しかも、それが我慢できないって、どういう心理なんでしょうか?」

 この一言に、ぼくたちは虚を突かれ、うろたえてざわついた。これまで、この一節を、彼女のように疑う者は、なかったからね。痛いところをつかれたという思いがした。この日は、彼女のふともらした言葉のおかげで、お互い、いつになく熱い議論を戦わせることができた。彼女が読書会を活発にしてくれている、みんなそう感じて、うれしくなったものだ。 
 そういえば、あのとき、店長がざわついたぼくたちに気づいて、彼女がまた何か注文をつけたのではないかと疑ったらしい。それで、通りがかりに彼女を呼んで何か尋ねたようだったが、どうやら、ことなきを得た様子で、ぼくたちもほっと胸を撫で下ろしたよ。
 でも、今後は、安全のために、彼女がぼくたちに気軽に話しかけるのは、内心残念ではあったが、控えてもらうことにした。その代わり、彼女の意見や質問は、『嘔吐』に一番詳しい露野に、読書会がおわったあとで答えてもらうことにし(うう、羨ましいぜ)、結果は次回の冒頭で報告するという方式を採用した。どうしてもタイムラグが出てしまう欠点はあるが、彼女の意見を読書会に反映させるという点では、目標は達成できたかと思う。
 かくて、読書会は順調に進んだ。しかし、雷雨は、折々唐突に現れて自己主張をやめる気配はなかった。
 じゃ、ここで、方向を変えて読書会に報告された彼女の質問を、二、三あげてみようか」
「あ、いや、ちょ、ちょっと、待ってくれ。その前に、素朴な質問をさせてくれ。小説の粗筋だけでも教えてくれないか。『嘔吐』を読んだことがないものだから、そろそろ話についていけなくなって来てるんだ」と、堀井が思い詰めた顔で訴える。どうやら哲学は未知の領域らしい。

「でも、『嘔吐』は、物語小説とは言えないから、粗筋だけ知っても理解の足しにはならないぜ」と、露野が難しい顔をする。

「それでも、あるにはあるんだろう?なら、それだけでいいから教えてくれないか。とにかく考える起点がほしいんだ。どこかに足を置くところがないと、立てないのと同然だろう? だから、粗筋だけでいい、教えてくれ」
「そうか、それなら、露野に聞くのが一番だな。何度か読んでレジュメまで作っているから。じゃ、露野、粗筋を頼む」と神岡が露野にバトンを預ける。

「うん、わかった。堀井がそう言うのも無理はないな。じゃ、概略だけ簡単に話すよ。
『嘔吐』は、アントワーヌ・ロカンタンという三十男の日記形式で書かれている。
 主人公のロカンタンには、暮らすのに十分な年金があって、働く必要はない。目下、ブーヴィルという港町に住んで、ド・ロルボン侯爵と名乗る、フランス革命期に暗躍した人物を、町の図書館に通って研究している。
 彼は、研究だけで人とほとんど交際のない、孤独な日々を送っている。
 日記は、断続的に二十二日間に渡って書き綴られ、最終日にパリへ出発する時刻の少し前までの記述で終わっている。

 これが粗筋だな。さっきも言ったように、粗筋だけでは、この小説の意図はよく分からない。でも、分からなくてもいいんだ。みんなには、とりあえず、彼女のした質問と俺の答えをわかってもらえればいい。なぜなら、どちらも、俺の失恋話に決定的に関わって来たからだ。ここは、どうにも省くわけにはいかない。
 だが、仮に、今それを説明しても、話を最後まで聞いた後でなければ、納得はできないものとも思う。だから、唐突だけれど、彼女の三つの質問は後回しにして、大急ぎで、神岡に語り終えてもらったらどうだろうか」
「よし来た、合点だ」と神岡が威勢のいい声をだす。

「でも、長くなるんだろう?」と、大山が顔に疲労の色をにじませる。

「いや、ここからは急転直下だ。五分とかからない」
「おお、そうか、そうか、それは重畳」古老めいた大山の物言いに、われわれ大山村の住人は、ほくほく顔でうなずいた。

「それじゃ、急滑降でいくぜ。どこからだったかな。そうそう、二回目の読書会の後からだ。では始めよう。
 それから最後の読書会までは、前回の報告、訳読、解釈、意見交換、時々雷雨の繰り返しで代わり映えがしないし、特段のトピックもないから、ここで一気に最終回へと滑り込もう。でも、最終回も同じように代わり映えがないと思ったら大間違いだぜ。異例尽くしの連続なのさ。
 最初はいつも通りに始まったんだ。それが、前回の報告を終え、訳読、解釈、意見交換が一通り済んで、彼女がお冷やを注ぎに来たときから、状況が一変した。
 突如、露野が、横においてある例のバッグの中から白い封筒を取り出し、急にガタガタ立ち上がって、小声で「これ、読んでください」と彼女に渡すじゃないか。
 しかも、驚いたことに、彼女にあわてる様子がなかった。「はい」と丁寧に答えて、それを受け取り、ジャケットの内ポケットにすっとしまうと、定位置に戻って、冷静に室内を見回している。
 ところが、それから二十分くらい経った頃だ。彼女は、ハッと我に帰ったように、店の柱時計を見上げるや、慌てて奥に引っ込み、しばらくして普段着に着替えて現れた。それから、店長に走り寄り、話しながら何かを渡し、お辞儀をした。それが済むと、今度は、こつこつ速い足音を響かせながら、ぼくたちの席まで来て、傍らに立った。
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学