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京都七景【第十六章】

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「どうやら、露野のプロローグもようやく終わりに近づいた気配だな。じゃ、最後に、その「相互性への想像力」というのを軽く説明してもらえないだろうか。それが、この後の露野の失恋話とどう関わるのか、いまいちよく分からないので、よろしく頼む。だが、簡単にだぞ。くれぐれも哲学的議論にしないようにな」と、大山が大所高所からまとめにかかる。

「では超簡単に言うよ。今、仮にAという人がBという人に何か働きかけたとする。Bはそのことで、楽しくなったり悲しくなったり怒ったりする。そのとき立場を入れ替えて、BがAに同じことをしたらAはBがしたことを甘んじて受け入れることができるかどうかと想像する。もし、Aが受け入れられないならAはその働きかけを控えるべきだ。  
 これはビジネスの契約とは違う。互いの人間性を尊重できるかどうかの問題だ。それは、一般に人間性は同一なものだと考えられているから、立場を入れ換えることができるわけだ。これを相互性と名づけることにする。入れ換えてみて、互いの立場を想像して、その立場が受け入れられるものか、受け入れられないものかを判断する。これを相互性の想像力と呼ぶことにしようということなのだ。
 だから、例えば、俺の高校のガールフレンドの立場に俺を当てはめてみる。すると、今さらながら、俺はどれほど相手に無関心で冷ややかな男だったか、呆然とする。これでは、嫌われて失恋するのは当たり前だ。
 俺は、今でも二人のガールフレンドに心から謝り、償いたいと思う。だが、今からそんなことは不可能だ。もし、仮にできたとしても、相手を怒らせ、さらに不愉快にさせるだけだろう。
 ならば、次の恋の相手に、この苦い経験を生かして相互性への想像力を働かせる、つまり、相手に関心を持ち、その立場に寄り添って互いをよく理解し合い、その人間性を大切にする以外、これまでの不行跡を償う事はできないのではないか。何だか、理屈っぽくて、これからも恋愛は成就しそうにないがな」
「その試みが今度の恋だったいうわけか。あの最後の場面を思い出すと、露野にはすまないが、成就したとは言えないような気がするよ。では、時刻も遅いから、ここで立場を入れ換えて、僕が露野の失恋のあらましを手短に述べてもかまわないかい?」と神岡が頃合よく話を取り持つ。

「おお、そうしてくれるとありがたいよ。頼む」
「では、僕が知っている限りでまとめてみよう。ひとまずは事実だけを述べることにする。次に補足があれば大山にお願いする。最後に、失恋のことや、それに関わる大山と僕、それに、堀井や野上も含めて、疑問があれば、答えられる範囲でいいから、ぜひ露野に回答をお伺いしたい。とまあ、こんな段取りでやらせてもらうかな。では、時間もないので、かいつまんで話すぜ。まずは僕の話からだ。
 たしか、今年の春休みに入る直前だったかと思う。卒論のテーマをフローベールの「ボヴァリー夫人」の作品論にすると決めたので、フローベール研究の文献表を作り始めた。
 まず、評伝はないかと探していると、サルトル著「家の馬鹿息子」というフローベール伝が見つかったが、大部な上に日本語訳がないときている。早速フランスに注文したものの手に入るのに二ヶ月はかかるし、手に入ったからと言ってすぐ読み始められる代物とは到底思えない。それまでにサルトルの文章に慣れておくことが賢明だと思いたち、フランス語の担当教官を訪ねると、かの高名な実存主義的哲学小説『嘔吐』ならば、仏語中級のテキストには打ってつけだと薦められ、それで読み始めることにした。
 ところが、読みだしたまではよかったが、文章は追えても言っている意味がどうにも掴めず、一人で読み進めるには困難を感じた。そこでサルトルを含めて実存主義哲学に明るい露野とドイツ語に明るい(サルトルはドイツに留学してハイデッガー哲学の影響を受けていたからね)独文の大山に声をかけ、読書会形式で一緒に原典を読んでもらうことにした。時間は、三人の都合がいい、毎週水曜日、午後三時からの約二時間、場所は、喫茶「沁々(しみじみ)堂」、とした」
「しみじみ堂って、百万遍の交差点を少し東に入った、あの沁々堂かい?」と、わたし。

「もちろんさ、あそこなら読書会の学生も多いし、深海のように静かで心が落ち着くからな。それで、春休み中に、各自下読みをし、四月の第一週から夏休み直前の六月最終週までの期間に、とりあえず読めるところまで読んでみようという計画になった。
 さて、初日のことだ。店に入って、街路側の、壁が大きなガラス窓になった席に、三人相対して腰を下ろし、注文した飲み物がテーブルに運ばれたところで、おもむろに僕が、日本語訳の題名『嘔吐』について普段から思っている意見を意気揚々と述べたところでケチがついた。
 僕たちは、だいたいこんな会話をした。

 ぼく「まず、日本語の題名のことだけど。『嘔吐』って、ふだん使わない言葉だろう。気になって、原題の「ラ・ノゼ(La Nausee)」をプチ・ロベールで(うう、心が痛む。あの頃は、まだ乾いていたんだよな)、調べてみた。すると、「吐き気、むかつき、抑えがたい嫌悪感」と出ているだろう。なんか意味がズレている気がしないか」

 大山「なるほど、仮に「吐き気」だとして、『嘔吐』と「吐き気」とは確かに違う。『嘔吐』は、胃の中の物を吐く行為だし、「吐き気」は吐きたい気持ちのことを言うな」

 露野「でも、下に「催す」をつけると、どちらも同じ意味になる。『嘔吐』を催す。「吐き気」を催す」

 ぼく「でも、それは成句としての用法だろう。やはり、『嘔吐』と「吐き気」は違うよ。ここは「吐き気」とするのが、正しいと…」

 女性店員「あの、お客様、お客様。お話を中断させてしまって、大変申しわけありませんが、ここは飲食店ですので、そのような言葉は、お控えいただけますか。周りの皆様も困っていらっしゃるようですので…」

 ぼく「あ、いや、違うんです。僕たち、純粋に学問的な意味で『嘔吐』と「吐き気」を…」

 女性店員「あの、学問とかそういうことではなくて、ここでは、そのお言葉を控えていただきたいんです。あくまでもここは飲食店ですので。申しわけございませんが、よろしくご理解、ご協力を、お願いいたします」

 僕は、憮然としたね。翻訳語の『嘔吐』がふさわしいかふさわしくないかを学問的に論じ合っているときに、それに水を差すとは何事かと、その女性店員に面と向かって言ってやろうかと思った。でも止めることにした。
 たとえ夢中になっていたとはいえ、喫茶店で、「吐き気」だの『嘔吐』だのと大声を出すのがいかに非常識かは、誰の耳にも明らかだ。なのに、自分の恥ずかしさを隠すためだけに、学問の名を出して抗弁するのは恥の上塗りをするようなものだからね。それは、格好よさを標榜する僕の生き方にはそぐわない、なあんてね。でも、これは後づけの理由だよ。そのときは、そんなことを考える余裕はなかった。その女性店員を見て、僕は息が止まるかと思ったのだから。
 端正な顔立ち。僕の好きなタイプだ。しかし、その顔を一目見た後には、もはや言うべき言葉を失った。
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学