京都七景【第十六章】
で、それから後は、思いつくまま、お互い眠くなるまで、いろいろな話をした。話す中味はたわいないことだったが、一つの話題からもう一つの話題、さらに別の話題へと、切れ目なく移る話の流れに身を委ねるのは、とても心地よいものだった。そのうち話すのにも疲れて、いつか二人ともこたつに潜り込んで眠ってしまったらしい。
気がつくと午前十一時を少し回っている。俺は、昨夜からかけた迷惑を、深く野上に詫びた。野上は、気にすることはない。自分もいつになく楽しかったから、こちらこそ感謝する。これからも近くに来たら、いつでも寄ってくれ。歓迎するぜ、と言ってくれた。俺は思い切って、毎週土曜日の夜中に本屋まで散歩しているから、その時に訪ねても迷惑じゃないか、と聞いてみた。野上は、いや迷惑じゃないから大丈夫だと言った。俺は、礼儀に疎いから、すぐ言葉に甘えて毎週来るかもしれないけれど、本当に迷惑じゃないのかと再び念を押した。野上は、少し考えて、じゃ、窓に明かりがついていたら、来ればいいよ。起きてるはずだから、と応じてくれた。
それからは、散歩の往復に野上の部屋の窓を見上げるのが習慣になった。そのたび窓には明かりがついていた。雪の日以降の土曜日は、ついつい我慢できずに、二回続けて野上の下宿に立ち寄って話し込んでしまった。野上は変わらず寛大に俺を歓迎してくれた。俺は土曜日の散歩が楽しくなった。だが、野上の申し出に簡単に甘えてはいけないこともまた、心に言い聞かせた。
不思議なことに、三回目の散歩からは、窓に明かりがついているのを見ただけで、雪の日にいろいろ話し合ったときのような、温かく朗らかな気持ちが湧いてきた。そのたびに、孤独がそれほど不安でなくなり、わざわざ野上の貴重な時間を煩わせるのもすまない気がして、下宿の前も平静に通りすぎることができた。その間も部屋の明かりは絶えることがなかった。
そうするうちに、俺は、窓に明かりがついているのを確かめるとすぐに引き返して、安心して布団に入れるようになった。睡眠時間は次第にふえていった。
と、まあ、こうして、野上が起きて俺を迎えてくれたおかげで、俺は弟のいない孤独を克服することができた。野上には、なんとお礼を言っていいのか、感謝の言葉も見当たらない。弟じゃないが、野上よ、俺を孤独の中から救ってくれて本当にありがとう。野上の窓の明かりが、あのときの俺には希望の光だった。恩に着る」
「いや、いや、そんなに大げさに取ることはないよ。ただ、明かりをつけて起きているのを知らせただけなんだから。日常の範囲内のことで、実質、何もしていないに等しい。それほど感謝するには及ばないさ」
「そうじゃないんだ。俺にはあの窓の明かりは特別だった。あれに、どれほど救われたか、言葉では言い尽くせない。
あのとき心に決めたことがある。自分は、野上のように、人に安心を与える明かりになろうと。でも、太陽のように、誰にでも温かい光を投げかけることは俺にはできそうもない。あの真夜中に見た月明かりのように、気がついた人に、気がついたときだけ、そっと寄り添う光を投げるのがちょうどいい。太陽の光は万人向けだが、お節介だと感じる人もあるかもしれない。月の光なら、俺のように、そう思ったとき、そう思った人にだけ働きかけることができる。いらない人には、その人が無視すれば済む。
俺は、やや冷めた、自分から押しつけることの少ない、この距離感を大事に思うんだ。たぶん、俺自身が、そういう慰めを受けたら、うれしいと感じるからだろう。いずれにしても、野上のおかげなんだ」
「少し、露野の買いかぶりが過ぎると思うから、一つ訂正させてもらってもいいかい」と、わたしが苦渋の選択をする(なぜ苦渋かは、乞うご期待。してもらうことでもないか)。
「もちろんいいけど、俺が何か間違ったことでも言ったかい?」
「いいや、こちらの問題なんだ。このまま露野に誤解されたままでは、いかにも心苦しいので、正直に告白させてもらうよ。
さっき、露野は、窓に明かりが絶えなかった、と言った。もちろん、それは事実だが、おれがいつも起きていたかというと、必ずしもそうではない。どうしても眠さに勝てず、二回ほど、約束を破って眠ってしまった。本当に申しわけない。だから、そんなに感謝して、おれに義理立てすることはないんだ」
「じゃ、どうして明かりは消さなかったんだい?点けたままだと、俺が訪ねて起こしてしまうかもしれないぜ。寝たなら消しておけばよかったのじゃないだろうか」と、露野が論理的理性を働かせる。
「そう機械的にいかないのが、野上のいいところさ。そこは、思いやりと取るべきだな、そうだろう?」と大山が納得の表情を浮かべて、わたしを横目に見る。
「いや、そんな立派な理由じゃないんだ。おれは自分を助けるようなつもりで、そうしたんだから」
「自分を助けるつもり? なら、やはり、明かりを消して、俺に眠っていることを知らせた方がよかったのじゃないか」
「そういう助け方じゃないんだ。さっきも話したように、明かりを頼りに露野が下宿を訪ねてきたとき、自分と似たような状況の中で苦しんでいるらしいと、おれは直覚した。しかも帰りがけ、これからも訪ねていいかと露野が聞いたときに、その思いはますます強くなった。おれは何だか自分が露野の苦しみを苦しんでいるような気がした。いや、露野がおれの苦しみを苦しんでいるのかもしれない。
ふと、自分ならこういうとき何をうれしいと感じるだろうか、何をしてもらいたいだろうか、という問いが浮かんだ。おれなら、訪ねる気はなくても、つらい悩みを抱えて暗い窓を見たら、拒絶されたような気がして絶対がっかりする。それはもう間違いない。明かりがいつも点いていたら、それだけで無条件にうれしくなる。なら、明かりはつけておくべきだろう。それに、訪ねてくれれば、もちろんいつだって歓迎するつもりでいるから、かまわないじゃないか。おれは、そうやって悩んでいる露野を、というより、同じ悩みを抱えている自分を、救いたいと思った。だから、そんなに褒められたものじゃないんだ」
「いや、そんなことはない。さっき明かりは消しておけばよかったなどと配慮のない愚かな意見をのべたことを恥ずかしく思うよ。今の野上の考え方こそ、俺が家庭のいざこざで学んできたことなのに。
父も母も、そして俺も、今から思えば自分のことを考えるのに、手いっぱいだった。ところが、一番年下の弟が、自分のことは後回しにして、まず俺のことを考えてくれた。それ以降、俺は弟から学んだことを「相互性への想像力」と名づけて、ちゃんと身につけようともがいている。だが、身につけるのはなかなかに大変で、てこずっている最中だ。なのに、野上には、俺のように変な名前などつけることなく、自然に身についている様子だから、ますますうらやましくなるよ。俺も、もっと精進しなくちゃな」
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学