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京都七景【第十六章】

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 著者はキェルケゴール(標準的にはキルケゴールという)、デンマークの哲学者だ。哲学史で調べると、「その思想は二十世紀実存哲学の源流の一つとなった」と書いてある。その時、よし、この書物を解読するためにこそ自分は哲学を専攻しよう、と決心した」
「そうか、露野の哲学専攻の裏に、そんな複雑な事情があったのか。そうとも知らず、哲学科のやつは、常識を弁えないから、いや失礼。そうじゃなくて、常識を疑うから、あえて常識に反して、夜中の二時に訪ねて来るんだろう、くらいに考えていた自分を、今、ひどく恥ずかしく思うよ」と、わたし。

「いや、こちらの方こそ野上に、その度に迷惑をかけ、まことにすまないと思っている。でも、俺が哲学を専攻したことと、深夜に野上を訪ねることとに直接の関係はない。なるほど、どちらも、両親が俺に対する養育責任を体よく放り出したことに端を発しているのは間違いない。しかし、野上訪問の理由はもっと別なところにある。哲学専攻の理由は、すでに分かってもらえたと思うから、今度は深夜訪問の理由を手短に話すよ。残念ながら、俺の深夜訪問に、「常識への疑い」から来る高邁な哲学的理由など、いささかもないんだ。あるのはむしろ、人間なら誰しも経験する、あの、ある傾向を持った本能的な感情なんだ」
「おい、おい、露野、それ以上言って大丈夫か。一度口に出すと、後戻りできない地平に自分を追い込んでしまうこともあるぞ」と、大山が瞑目したまま、意味深長な警告を発する。

「いや、そういう心配はない。大丈夫だ。訪問は非常識だが、感情はごく常識的だからな」
「そうか。なら、そうあることを期待するぜ」と、大山。

「おれも、是非そうあることを期待したい」と、わたし。

「では続けるよ。確か、さっき母が弟を、俺と別れの挨拶もさせずに、実家に連れ帰ったと言ったように思う。下宿に落ち着き、ひとまず入学後の目標が決まると、その弟のことが妙に気になり出した。あれだけ仲良くしていたのに電話一つかけてこないのはおかしくはないか。また数日すると、今度は何だか冷たいじゃないかと恨めしくなった。また二、三日経つと、ああ、兄弟なんてそんな頼りないものか、ましてや異母兄弟だ、忘れて当然さ、と心が荒んでくる。
 そのときになって、鈍感な俺はやっと気がついた。住所も連絡先も、まだ誰にも知らせてなかったじゃないか。自分は、やはりここでも身勝手な人間だった。さいわい、母親の実家の電話番号は手帳にメモが残っている。俺は、すぐに電話をした。
 俺の声を聞くと、弟は「どうして電話してくれなかったの」と声をつまらせ、泣き出してしまった。俺も申し訳なさに胸が詰まって言葉が出なかった。お互い少し落ち着いてから、情報を交換し合うと、弟が俺のことで、思った以上に母と険悪な仲になっていることがわかった。弟は、兄さんの無事が知れないうちは、両親を許さないし口も聞かないと言って、ずっと自分の部屋に閉じこもっていたらしい。俺は感激した。ここまで自分のことを思ってくれる者がいたのか。目から熱い涙がぼたぼたとこぼれ落ちた。俺は、膝を抱え、その膝に首を埋め、声を殺して泣いた。嬉しかった。そうして弟に変な誤解をした自分が心底恥ずかしくなった。これからは、もっとまともな人間にならなければいけない。 自分の判断を疑うこと。能う限り相手の気持ちに寄り添うこと。今後この二つを決して忘れまいと強く自分に言い聞かせた。ハハ、ちょっと、カッコ良すぎたか。
 それからすぐに、弟をこのままにしておいてはいけないと直感したんだ。何かしてやらなければならない。そうしないと、優しい弟の心は孤独と不安に苛まれ、バランスを崩してしまうに違いない。弟は、そのとき中学二年生になったばかりの十三歳だった。誰だって自分一人でやっていける年齢だとは言わないだろう。まだまだ物心両面で支える人間が必要だ。物質面は、母親の実家で生活できるから、まず大丈夫だろう。問題は精神面だ。母は、確かに弟を大事に育ててはいるが、弟の心の動きや流れを察して、自らの態度を省みるという心の細やかさは、残念ながら、ない。それは父親も同断だ。だから、家族がこんなことになったわけだが。
 ここは、いかに経済的自立ができていないとは言え、一番身近にいる自分が何とかするしかない。そう決心をつけて俺は母親と掛け合った。それから、あれこれいろいろ、いざこざが、てんこ盛りだったが、結局次のように落ち着いた。
 弟が今後しばらくの間、毎週、土曜から日曜にかけて俺の下宿に一泊することを、母親は、弟の様子を見て不承不承ながら認めてくれた。母親にもそれ以外にいい方法が見つからなかったらしい。
 弟はその話を聞くと、すぐ、その週から俺のところにやってきた。久しぶりに顔を合わせて見ると、確かに面やつれはしていたが、声はずいぶんと明るくなってしっかりとしている。俺は、よかった、と心の中で安堵の胸を撫で下ろした。
 ところで、話は逸れるけれど、そんなに毎週、弟が京都に来るのでは母親の出費もばかにならないだろうと考える向きもあるだろうから、ひと言つけくわえさせてくれ。
 俺の故郷が静岡なのは、もうみんなも知ってることと思う。だから、母の実家も静岡だろうと推測したかもしれないが、実は大阪の高槻市なんだ。高槻市から京都の岡崎法勝寺町の俺の下宿までは、電車を乗り継げば一時間以内で来られる距離にある。まさに通勤、通学圏で、交通費もそれほどかからないってわけさ。運がよかったよ。だから母親も了承してくれたんだろうと思う。      
 まあ、それで、いよいよここから野上への夜間訪問の謎が徐々に解けてくるから、もう、ちょっとの辛抱をお願いする。
 それから、弟は毎週必ず来て泊まるようになり、三月過ぎる頃には以前の元気を取り戻すようになった。それを見た母は、そろそろ行くのをやめても差し支えないだろうと言い出したが、弟は承知しなかった。もちろん、俺も承知しなかった。もし、ここで来るのを止めてしまったら、おそらく弟は元の状態に戻ってしまうだろう。なぜなら、弟が時折もらす実家の話から、母の態度が何一つ変わっていないことが、手にとるように想像されたからだ。
 俺は弟と相談をした。弟は、自分の意見を持てて、簡単に周りの状況に左右されないようになるまでは、つまり、もう少し精神的に成長するまでは、ここに来たい、と言った。俺も、ぜひそうしてほしい、と言った。それは、ただ弟を守りたいという理由からだけではなかった。その頃には、弟と一緒に過ごす時間が、俺にとってかけがえのないものになって来たからだ。下宿で俺が独り家族を恨んでいたとき、俺を心配して母に口も聞かずに抵抗している弟の姿を思うと、俺の荒んで凍った心が、どんなに暖かく癒されたか、言葉にできないくらいだった。俺は弟に感謝の言葉を告げた。弟も、自分をここに救い出してくれてありがとうと言った。
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学