京都七景【第十六章】
「最後というのが、ちょっと悲しいですね。でも、もちろん、聞きたいです。今日は、天気は荒れてたけど、心は穏やかに晴れたので、どんな話でも優しい気持ちで聞けそうです」
「こんな内容です。
〈ロカンタンが、最後にブーヴィルを去るとき、なじみの店に入って、よくかけていたレコードを店員のマドレーヌにもう一度かけてほしいと頼むんです。その歌を聞きながら、ロカンタンは、その曲に感動し、作曲した男の苦悩や苦労がもう少し知りたくなります。でも、そんなことは、この男には何の関係もないだろうし、男はもうすでに死んでしまっているかもしれない。でも、自分がその男の立場だったら、そんなことを考えてくれる人がいるのをうれしく思うだろう〉と。
憂鬱な表現に満ちた『嘔吐』の中で、おそらく、ただ一つ、心温まるエピソードだと俺は思うんです。さっきの話を聞いたとき、状況や対象は異なっていても、この場面が思い浮かびました。こじつけになるけど、ロカンタンがあなた、作曲した男が、サルトルってところかな」
「じゃ、マドレーヌは?」
「マドレーヌは、強いて言えば俺かな。マドレーヌは曲をかけてロカンタンの想像力を促す仲介者になる。俺はメモのある本を渡して、あなたがサルトルの実存主義哲学を学ぶ協力者になる。そうして、ロカンタンもあなたも、相手の立場から自分を見つめ直す。どうです、似てませんか?」
「ええ、本当に。やはり、他者と自己との相互主体性を意味しているんでしょうか?」
「難しく言えば、おそらくそうでしょうね。やさしく言うなら、他者の立場から考えよと言うことです。
俺は、それができなくて二人のガールフレンドに嫌な思いをさせ、両親は、俺の立場など頭になかったから、俺が嫌な思いをしたんでしょう。俺は、曲がりなりにも両親の行動から、それを考えられるようになりました。今は、両親に、少しはそんなことが考えられるようになっていてほしいと願うのみです。まあ、愚痴かな、忘れてください。
それで、読書会では全体の三分の一くらいまでを読むのがせいぜいで、到底このエピソードにはたどり着けなかったので、帰省して時間のあるときに最後まで読んでみてください。その時に感想を教えてもらえるとうれしいな」
「まあ、そういうことなら、ぜひ読んでみます。結末のどのあたりでしょう?」
「終わりの二、三頁くらいのところです。あ、そうだ、すぐわかるとは思いますけど、好きな一節だから、その場所と本文の抜き書きをメモにして、最後の読書会のとき渡しますよ。何だったら原文もつけましょうか?」
「えっ、いいんですか?」
「フランス語は読めるんでしたよね?」
「第二外国語で、初級をひと通りざっと学んだだけなので、自信はないですけれど。でも、フランス語は好きなので、ぜひ、お願いします。ついでに、さっきの三つ目のお願いに、小さなことを一つつけ加えても、いいですか?これを最後にしますから」
「こうなったら、なんでも受け付けますよ。で、どんなことでしょう?」
それは、最後の読書会のときに、互いの住所と電話番号をメモに書いて交換することだった。俺は何気なさそうに軽くうなずいた。でも、本当はとてもうれしかった。
俺たちは、知恩寺の境内をゆっくりと出た。雨の上がった空は、青々として雲一つなかった。話を続けながら歩いたので、俺は別れる地点を通り越してしまい、行きがかり上、彼女を送ることになった。
百万遍の交差点を渡り、今出川通りを西に歩いて、賀茂大橋に出ると、雷雨のせいで賀茂川が見たこともないほど増水し、川面に波しぶきが立って、どどん、どどどんと音をたてて流れていく。普段なら恐ろしい光景だが、そのときの俺は、彼女から頼まれたことに少し舞い上がっていたようだ。賀茂川を渡った記憶がない。
その後、河原町通りと今出川通りの交差点にある富士銀行の前で彼女と別れた。彼女は歩道を西に渡るとくるりと振り返って手を振ってくれた」これが、真相というところかな」
「何だよ。純愛物語じゃないか。どこに失恋があるんだ?」私が苦情を呈する。
「てっきり失恋したと思ったんだが、大どんでん返しだな」神岡が勝馬を外した予想屋のようにショックを受けている。
「いや、露野の様子からこんなこともあるんじゃないかと思っていたよ」大山は相変わらず泰然自若を決め込んでいる。
「しかし、これを恋愛と言えるのかな?まだ始まっていないのじゃないか」堀井が疑義を呈する。
「それは、俺もそうじゃないかと思っている」と、露野が、やや自信なさそうにうつむく。
「ぼくが言うのもなんだが、どう考えても恋は始まっているさ。あとは、二人がどう育てていくかだけだよ。だって、そうだろう。ぼくの提唱した「出会い三回論」を思い出してくれ。
露野と彼女の出会いは、もはや三回どころではない。しかも、さっきの話によると、出会うたびにお互い、合う時間を延ばしている。最後は彼女をアパート近くまで送って行った。さらに、電話番号と住所の交換をし、これからもお互い連絡を取り合おうとしているのだから、もはや恋愛としては上々の部に属している。だから、あとは露野の覚悟にかかっているといっていいな」
「そうか。それは、俺もそうじゃないかと思っていた」と、露野が、やや明るい表情で顔を上げる。
「露野くん、自分の言っていることが分かってるのか。いったい、どっちなんだ?」と私が、お節介にも気色ばんで詰め寄った。
「すまん、すまん。だいたいは神岡の言った通りだと思っている。しかし高校時代に二人の女性に迷惑をかけたことがあっただろう?あれが今でも心の傷になって、また同じことをしたらどうしようかと恐れている自分がいる。
彼女は遠い郷里に帰った。去るものは日々に疎し、という諺もあるじゃないか。だから、一方で、二人の物理的距離が、心の距離になるのが怖いんだ。だから、失恋したと思って、このまま何もしないで、忘れてしまったほうが、お互いにいいのじゃないかとさえ考えたりもする、また、もう一方では、今の自分は、以前の自分ではない、心に苦い傷を負っているけれど、あの時より相手の立場に立って物事を考えられるようになってきた。哲学にも目覚めることができたし、実存主義を知って主体的に責任ある行動をとり、自己実現を果たしたいと強く願ってもいる。そして何より彼女のことを大切に思っている。
だから、結論はもう出ているんだ。今夜話してよくわかったよ。したいことははっきりしている。俺の覚悟ができていなかっただけさ。俺は彼女とともに前に進もうと思う。野上、堀井、神岡、大山、ありがとう。俺は送り火の夜のこの会に感謝する」
「そうこなくっちゃな。がんばれよ、露野」わたしは何だかしみじみとした。
「ところで、今出川と東大路の交差点を、どうして百万遍と言うんだろうな?」堀井が誰ともなく問いかける。
「そこはやっぱり人の行き来が多いから百万遍というんじゃないか」と神岡が受ける。
「ううん、それは違うと思うな。実は気になって調べたことがあるんだ。それによると、四辻にある知恩寺に由来していた。
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学