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京都七景【第十六章】

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 俺は、大山と神岡に、「あの豪雨の中、よくそれくらいで済んだな」と驚き呆れられたものの、特に弁解もせず、淡々と残りの本文の解釈を終えると、二人に別れて知恩寺の境内へ行った。しばらくして彼女が姿を現した。
 彼女は開口一番、
「二つ目のお願いは、これです」と言って、手提げの中から一冊の本を引き抜いて、俺に差し出した。見ると、人文書院版サルトル全集第十三巻「実存主義とは何か」の新本ではないか。おそらく、俺の薦めに応じて彼女が大学書籍部で買ったものだろうと直感した。でも、なぜそれを俺に差し出したのか、皆目見当がつかなかった。

「これはどういう…」俺が言葉をつまらせると、彼女は言いにくそうに下を向いて、こう告げた。
「あのう、この本の代わりに露野さんの御本を私にもらえませんか?」
「ええっ?でも、この本、新本でしょう?もったいないじゃないですか。俺のは書き込みだらけで、汚いし読みにくいし、役に立ちませんよ」
「いえ、全然そんなことないです。私には、何も書いてない新しい本のほうが、役に立ちません。この境内で、露野さんが話してくれた解説はとっても明快で分かりやすかったけれど、うっかりメモを取らなかったので、新本で読んだら、きっとわからなくなってしまいます。ですから、露野さんの本が身近にあれば、いつでも、そのメモを参考にして、きっとここでのお話を思い出せると思うんです。お願いです。私を救うと思って、露野さんの本を私にもらえませんか。ご自分のメモは、それは大切なものだと思います。でも、そのメモを、私が読み直すときの指標にさせてほしいんです」
「俺のメモなんて、大したことはないですよ。次に読むときには、また別のことをメモするでしょうから。ただ、けっこう誤読や勘違いがあると思うと恥ずかしいな」
「いいえ、私には、サルトルの本文と対になった露野さんのメモだから、意味があるの。大切にしますから、お願いします。それとも、おいやですか?」
「いやだなんて、とんでもない。お役に立つなら、もちろん、よろこんで」
「では、そうしてもらえるんですね。ああ、よかった。断られたらどうしようと思ってたの。それじゃ、露野さんの気が変わらないうちに、急いで交換しなきゃ」彼女は、俺から本を受け取ってパラパラめくると、やや大きい声をあげた。
「わあ、こんなにメモがあるんだ、うれしいー。大切に読ませていただきますね。これなら、ひとりで本文を読んでも、理解できそうな気がします。ありがとう」

 それから、彼女は見ていた本を閉じて胸に抱え、神妙な顔つきになった。
「それでは、いよいよ最後のお願いです。でも、その前に、変な質問をしますけど、聞いてもらえますか?」彼女が、俺の顔を覗きこむようにしたので、黙ってうなずいた。

「じゃ、言いますね。露野さんは私のことをどう思ってますか?」

 この一言に虚を突かれて、俺は言葉を失った。
「どう…?」

「ごめんなさい。わかりにくい質問で。わかりやすく言い換えますね。つまり、こういう意味なの。〈私、これから大丈夫でしょうか?〉〈郷里で、ひとり、ちゃんとやっていけると思いますか?〉」
「ああ、そういう、そういうこと。なるほど、そういう意味ですか。それなら、答えはすでに出ているじゃないですか。大丈夫、ちゃんとやっていけますよ。なぜって、あなたのした行動が、それを十分に証明しているじゃないですか。自分では実存主義を知ってから行動したように思っているかもしれませんが、郷里を出て京都に来たこと、情報処理の専門学校に入学したこと、学費のためにアルバイトをしていること、我々の読書会に参加したこと、どれもみな自らの自由意志で決めたことではないですか」
「それはそうですけれど。でも、ときどき、どうしようもなく不安になるんです。」
「大丈夫ですよ、あなたは大丈夫。これまでもひとりで、しっかりやって来たじゃないですか。もっと自分に自信を持ってください。きっとうまくいきますから。俺が太鼓判を押します」
「それでも、もし大丈夫じゃなかったら?」
「そのときは、俺がいつでも相談に乗ります。連絡してください」
「本当に?」
「本当です。俺に二言はありません」
「誓って?」
「もちろん、誓って相談に乗ります」
「ああ、よかった。それが私の最後のお願いだったんです。まるで誘導尋問をしたみたいになって、ごめんなさい。実は、郷里に帰る決心をしてから、このところ、頭の中でさっきのような疑問が湧いて、ひどく不安になることがあるの。そういうとき、気持ちを落ち着けようと、サルトルの本を開いて、こんなふうに何度も自分を励ましてみるんです。

〈この日本の片隅に、サルトルの『嘔吐』と『実存主義とは何か』を読んで、感銘を受け、自分の人生を切り開きたいと願っている一人の女がいる。その女はサルトルが、どんなことに悩み、どんな人生を送って「実存主義哲学」を確立したのかを知りたいと思っている。でも、そんなことは、サルトルにとってはどうでもいいことかも知れない。でも、もし私がサルトルなら、きっと、その女のことをうれしく思うだろうし、応援したいと考えるだろう〉って。何だか自分に自己暗示をかけているみたいね。

 でも、そのあと、すぐ気づいたんです。知恩寺の境内で露野さんがしてくれた解説はどうやって思い出せばいいんだろう。何もメモが残っていないじゃないか。どうしよう。そう思うと、もっと不安になりました。
 そこで思いついたのが、わたしと露野さんの本を取り替えることでした。結局、二つ目と三つ目の願いは、分けることのできないものでした。どちらも聞き入れてくださって本当にありがとう。では、もう一度だけ確かめさせてください。私、気になると何度も確かめないと安心できないの。なんかまた、あの「嘔吐」と「吐き気」のときを思い出しちゃいますね」
「なるほど、そういうことでしたか。ええ、いいですよ。何でもどうぞ」
「じゃ、さっきの約束、ぜひお願いしますね。ほんの時折でいいですから、相談に乗ってください。わたし、くやしいけれど、まだまだ、自分に自信が持てないの。郷里に戻って少しの間でかまいません。気持ちが落ち着くまで、お願いします」
「その不安な気持ち、よくわかります。自分も京都で孤独感に苛まれ、精神状態が不安定になって、相談相手を必至に探したことは、たしか話しましたよね。
幸い、事情のわかっている弟や、夜中に訪問できる友人もあったので、俺は助かりましたけど。あなたにも、そういう役割をする人がどうしても必要だと思います。俺が適任かどうかはわかりませんが、かつての自分を救うような気持ちで相談に乗らせてもらいますから。何も気にすることなんかありませんよ。人間は悩むものですから」
「ありがとう。その言葉を聞いて心からほっとしました。でも、甘えすぎないように自重しますね。私、すぐ気が抜けるタイプなんです」
「そうは見えないけどなあ。ところで、さっきの、自分を励ます言葉を聞いて、一つ思い出したことがあります。『嘔吐』の結末近くの、俺の好きな一節とよく似ているんです。知恩寺で話す最後に、聞いてもらえますか」
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学