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京都七景【第十六章】

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 俺は思い切って彼女に声をかけてみた。彼女は返事をしてくれた。存外よく聞こえているらしい。ただし、それでも雨脚は普通以上に強いから、気をつけて見ていないと、風のあおる向き次第で雨を全身に浴びかねない。話すにはもうしばらく待たねばならないと思って黙ると、彼女の方から報告したいことがあるという。次善の策として、俺たちは、二人とも前を見ながら話をすることにした。
 報告とはこういうことだった。だいたいは前に話したことと重複してるから、そこは省略して大事なところだけを拾おう。
 彼女が京都に来た理由は、両親が彼女の意思を認めないで自分たちの価値観に従うことこそ娘の幸福だと思い込んでいることに我慢がならず、両親から逃れて、情報処理の専門技術を身につけ経済的自立を果たすためだった。
 ところが、いざ勉強を始めてみると、どうも自分が求めていたものとは違うという気持が、だんだん強くなっていることに気がついた。自分は何をしたいんだろう、そう問いかけてみた。そうだ、私は、自分みたいに、なかなか思うように自分から行動に出られない、弱い立場の人たちを救いたいんだ。もちろん、情報処理の技術で彼らを助けることはできるかも知れない。でも、人が困っているその場で、直(じか)に助けたい。
 そう考えるに至って、情報処理の勉強に、さらに身が入らなくなった。だからといって、勉強を中断して故郷に帰れば、両親から、それ見たことかと、自分が選択を誤ったように非難され、だから親の言うことは聞くものだと追い詰められるだろう。そうかといって、このまま京都に止まり、情報処理の勉強を続けて仮に資格が取れたとしても、納得の行く生き方はできない気がする。どうしようかと考えあぐねているところに、サルトルの実存主義哲学に出会ったというわけだ。
 彼女は実存主義を知って、生き返ったような気がしたと言っている。知る前は、親元から逃げるように、わざわざ京都に出て来たのに、情報処理の勉強に挫折してしまい、自分は何をする価値もない人間だと、半ば自信を喪失しかけていた。
そのとき「希望を失ったところから本当の選択が始まる」とか「選択は、した後になって初めて価値がわかる」とか「現実に向けて主体的に選択した者こそが自己実現できる」という考え方に、心改まる思いがした。
 そのとき、彼女は自分のこれまでの行動を一つ一つ振り返ってみたのだそうだ。するとそこに別のものが見えてきた。

 まず両親の意見に従って短大の英文科を卒業したのはどうだったか。自ら責任を持って選択したと言えるのか。どう考えても決して望んだ選択ではなかった。でも、実存主義的にはそれも自己責任であった。これは、かなりきつかった。今後は望んだ選択をしなければいけないと固く心に刻んだ。
 次に、親の反対を押し切って京都に出てきたのはどうだったか。これは全く自主的に選んだことで一片の後悔もない。
 さらに、情報処理専門学校に進み、学業半ばで迷っていることはどうなのか。これも全く自主的に選んだことだから自己責任は免れない。しかし、京都に来て学業に挫折しなかったら、自分の本当にやりたいことに気づかず、さらに実存主義哲学に出会うことも、それによって、これまでの自分を超える自己を、実現することもなく、人生を終えていたかも知れない。そう考えると、京都に来ていろいろあったことこそが、自分にとって計り知れない価値のあることだったと、ようやく気がついた。

 そのときからだった、どうにもならない過去のことにいろいろ悩むことはやめて、とにかく自分の望む通りに、まず第一歩を、彼女が前に踏み出してみたくになったのは。
 その記念すべき最初の一歩が、自分の将来について故郷の両親と掛け合うことだった。 俺が、最後の解説を終えた翌日、彼女は故郷の両親に電話をかけたそうだ。
 情報処理の勉強が自分に向いていないこと、近々京都を引き揚げ故郷に帰ること、将来は医師か看護師になりたいこと。そのため医療関係の予備校に通って、来年、弘前大学(彼女は弘前市の出身だ)の医学部(医学科か看護科)を受験するつもりだということ。予備校はすでに決めてあり、授業料も払って七月から通うことになっていること、だから、目標を実現するまでは結婚できないこと、などなどを申し送った。
 ずいぶんきっぱりと言ったものだと、俺は思う。もちろんそれ以上に驚いたのは両親だったようだ。電話の向こうで、
「おまえ、頭は大丈夫なのか。一人暮らしで、孤独が高じて夢でも見ているのではないか。とにかくそのままでは心配だから、すぐ帰ってきなさい」と、言って、両親がうろたえているのが聞こえた。彼女は、とにかく一旦帰るけれども、自分の意志は堅いから、それは受け入れてほしいと言った。
 両親は、
「それが、おまえの本当の意志なら尊重しよう。それに医療関係に進めば、地元で一緒に暮らせるから一石二鳥と言うものだ。だが、看護師は考えものだ。家格に合わない。医師になるなら文句はない。ま、いずれにしろ、帰ってきてからの話だ。もちろん結婚も無理強いはしない。ほどよい時に、ほどよい相手とすればいい。とにかくすぐに帰ってきなさい」と、言ったそうだ。彼女は、両親の言い方に納得のいかないものを感じたが、それは今後自分が実現した結果を見せて変えていくしかないと思った。

 彼女の報告は、そこまでだった。俺は、なんとなくそんな予感はしていたが、いざ故郷に帰るのがわかってみると、率直に白状するが、残念な思いがこみあげてきた。でも、彼女は自分の未来を自分の手で切り開いていくつもりなのだ。ここは、よろこんで見送るべきではないか。俺は覚悟して言った。
「郷里には、いつ帰るんですか」

「急ですけど、来週の木曜日なの。だから、私、最後の読書会にはぜったい出席しようと思ってました。でも、いろいろしなきゃいけない手続ができて、前日の水曜日は、どうしても四時までしかいられないんです、本当にごめんなさい。帰郷をもう何日か遅らせて、皆さんにもきちんとお礼をしてからと思ったんですけれど、週末まで延ばすと両親が迎えに来ると言うので、それを避けるために「木曜に帰るから」と言っちゃったのが失敗でした。んもう、なんであんなこと言っちゃったんだろう。でも、うちの両親、来ると言ったら本当に来るから、果てしなく困るんですよ。
 ああ、でもこんなこと言っている場合じゃなかった。私から露野さんに三つ、お願いがあります。一つは、大山さんと神岡さんにお礼を言う時間がなさそうなので、露野さんから、お二人に、私がとても感謝していたとお伝え願えませんか。
 あとの二つは、ご迷惑でなければ、最後の記念ですから、いつもの知恩寺の境内で聞いてくださいね。お願いします」彼女は、にっこりしてそっと頭を下げた。追いかけるようように、あわてて俺もお辞儀をした。

「さあてと、雨も上がってきたみたいだし、片付けに戻らなくちゃ。それじゃ、またあとで」そう言って、彼女は雨に濡れた食器類をまとめてトレーに載せ、店の中に戻って行った。
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学