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京都七景【第十六章】

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 人間の絶望は、それらしく可能性のある予想をいくつか用意して、それが全部外れると、もはや他に選択肢がないと思い込むことである。だが、用意していた可能性がなくなったときこそ、予想のつかない可能性が広がってゆく時だ。なぜなら、世界は可能性をあなたの意思に適合させることはしないのだからと。
 ここから分かるのは、まず、現実に自分を投げ出し、とにかく行動すること。可能性は、その後に現れるということだ。
 こう話すと、彼女の顔に喜びと安堵の表情が広がった。
「とってもよく分かりました。私もしっかりしなくちゃって、やる気が出ます。
ずいぶん辛い経験をされたんですね。私のせいで嫌なことを思い出させてごめんなさい。でも、聞けてよかったです。大きなヒントをもらえましたから。本当にありがとうございました。
 それで、あの、もう一つお願いがあるんです。とても言いづらいことですけど、正直に言います。露野さんの話の続きをもう少し聞かせてもらえないですか。自分からこんなことを口にするのは恥ずかしいけれど、とても人ごととは思えないの。
 きっとこのお話は誰にもしたことがないのでしょう?それなのに、最初に話してもらった私が、露野さんの経験を、現実の苦労も知らずに単なる実存的な生き方の例として聞き流してしまうのは、いけないことだと思います。ですから、迷惑でなければ、私に、他にも口に出せずにいる辛い経験を話してもらって、ほんのわずかでも露野さんの荷を軽くするお手伝いはできませんか。
 もちろん、それで気持ちが軽くなるようなら、ですけど。それに、伺ったことは決して人には話しません。いけない、何だかカウンセリングしているみたい。失礼しました。ごめんなさい。もう、やめます」

 彼女の申し出を受けて、これまで気づかなかった心の緊張がゆっくり解けて行くのを感じた。彼女の前で、すらすらと話せた自分が不思議だった理由もわかる気がした。  
 俺は、彼女の勧めに従い、ほかの辛い経験(これもみんなに話してある)を、さしたる心の抵抗もなく素直に話すことができた。こんな経験は初めてだった。
 彼女は、親身になって俺の話を聞いてくれ、両親の俺に対する仕打ちに、心からの怒りを顯にし、弟には、その優しさに目を潤ませ、俺が迷惑をかけたガールフレンドたちには、彼女たちに代わって、俺を叱ってくれた。これは自分が同性だからなのか、けっこう怖かった。
 だが、俺は、彼女の共感性の高さ、とくに立場の弱いものへの共感性の高さに、感謝している。俺の心の細部までが清められた気がして、いつになく心の平安を得たように感じたからだ。
 彼女は別れ際に
「実は、私にも、露野さんに聞いてほしい、もやもやした話があるんです。でも、今日教えてもらった、実存主義的方式で、できるところまでやってみるつもりです。少し時間がかかると思いますけど、一段落したら必ず報告しますから、そのときは相談にのってくださいね」
と言い残して、帰って行った。

 それじゃ、三つ目の質問に行こうか」
「ええー、その思わせぶりな終わり方はなんだよーそれから先はどうなったんだ。気がもめるじゃないか」とわたしが不平を鳴らす。

「それは三番めの堀井が聞いてくれれば答えるよ」と、露野が嬉しそうに答える。

「じゃ、お言葉に甘えて、その後、彼女はどうしたのか、と聞きたいところだが、そうすると最終局面を聞き逃すことになる。ここはやはり、露野が彼女に渡した手紙が、恋文だったのかどうかだけ聞きたいな」と堀井。

「さすがに堀井、欲望の中心を突いてくるな」と即座にわたしが反応する。

「よし、わかった。では話そう。でもそれを話すには、やっぱり、さっきの続きから始めないとな。少し時間を節約できるかと思ったが、どうやら話すべきことは全部話さないといけないようだ。続けることにするよ。
 彼女が、さっきの意味深長な言葉を残して立ち去ったのは、五月最終の水曜日だった。それからは彼女と知恩寺の境内で会うこともなくなってしまった。
 次に話す機会が持てたのは、六月中旬の水曜日、この時季最大の、あの大雷雨の日だった。
 その日は、いつになく昼ごろから雷鳴が轟いて、街を行きかう人の足取りも急ぎがちなのが目についたが、俺はそんなこともあまり気にせず、いつも通り、大山、神岡と読書会を進めていた。その間も雷鳴は響いている。しかし、雨の降る気配が見えないので、空鳴り(からなり)に終わるのだろうと、心の中では高をくくっていた。
 ところが午後四時を少し回った頃から、雨にはならないものの、みるみるあたりが暗くなって、外の景色が闇に飲み込まれてしまった。店にいた客も、これはいつもと違うなと気がついたようで、二人去り、三人去りして、四時半頃には、とうとう我々以外にいなくなってしまった。さすがに自分たちも引き上げようかと思ったが、あと三十分あれば予定をこなせると判断し、居残ることにした。これが失敗だった、というべきだが、俺には干天の慈雨となった。
 べつに彼女と話ができると思ったわけじゃないよ。自然と勘が働いて、ここは雨が降る前に、トイレに行っておくに如くはないと、ひとまず判断を下した。トイレに入るときには、まだ雨も降っていないから、今ならまだ間に合う、大丈夫だと自分に言い聞かせた。しかし、いざ用を足して外に出ると、なんと事態は一変しているじゃないか。俺は本当に驚いた。取り乱したと言ってもいい。
 ざあっという音とともに、雨がガラス棒のような太い筋となって、一直線に、小石を敷いた地面に、バシャバシャと当たっているではないか。落ちた雨は早くも流れを作って庭のあちこちで渦を巻きながら合流し、いくつかある排水口に向かって、どうどうと流れている。それはもう銀閣寺の石庭の縞模様以上の量感がありそうだった。一歩踏み出せば、一瞬にして足は流れに取られ、たちまち滝のように落ちかかる雨で、全身がずぶ濡れになるのは目に見えている。
 俺は避難場所を探そうと左側を見た。するとそこに彼女の姿があった。彼女も中庭の席を片づけようとして出てきたものに違いない。四角い銀のトレーを胸もとに抱えて、雨がかかるのをかろうじて避けている。
 彼女は顔をこちらに向け、右手で手招きをしている。どうやらこちらの方が、雨がかからないことを合図しているようだ。とにかく俺は、ゆっくりカニ歩きをして、庇に沿って彼女のところまで行った。

「ありがとう」と俺は言ったが、彼女には雨の音がうるさくて聞こえなかったらしい。彼女も俺に向かって何か言ったようだが、雨の音に消されて、俺には一言も聞こえない。
 仕方なく、どうどうと降る雨の音を聞きながら、俺たちは身動き一つできないまま、ずっと降りしきる雨を見ているしかなかった。
 それから一五分くらいして、地面を流れる水の量に変わりはないものの、ようやく雨脚がやや緩んできたように思えた。
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学