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京都七景【第十六章】

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五、人間社会においては、自意識を持つために他者の存在は不可欠である。なぜなら、自分は他者の評価や反応を通して自分を知るからである。自分は他人がそうと認めない限り何ものでもあり得ない。また、自分の行動は、他者に承認されてこそ価値を持つ。  だから社会で生きるとなれば、他者と自分の間に道徳的な態度が求められるのである。

六、実存主義は人間を主体的行動によって定義する。
 人間には、世界内に存在し、そこで仕事をし、他人の中で生き、やがては死ぬという必然がある。これが人間の限界である。
 人間が主体的に行動するという意味は、現実の中にあって、この限界を生き、これらの限界に関連して自由に自分を決定する(つまり自己実現をする)ということである。もしそうしないならば、限界があることに意味はなくなる(つまり他の物体的存在と同じ立場に立ってしまう)。

 以上。大まかな要約の上に、つながりまで悪くてもうしわけない。でも、これが彼女にした、ほぼその通りの説明なんだ。もちろん、いちどきに全部を話したのではないよ。質問ごとに数回に分けて、ゆっくり丁寧に問答をしながら、理解が進むように心がけたつもりだ。これには、特に彼女からの質問はなかった。
 では、いよいよ俺の回答に移ろう。でも断っておくけど、あくまで俺個人の解釈だから、妙に信じて、後で違うじゃないかと言われても困る。もちろん、責任は俺にある。なにせ俺も実存主義哲学を信じる者の端くれだからな。それから、ここでは俺の解釈にさらなる質問を重ねて俺を困らせないように。問題は彼女に答えた内容なのだから。では行くよ。

〈第一問〉ロカンタンは、その日、何をするにも中途半端な午後三時がどうして我慢できなくなったのか、について。
〈解釈一〉午後三時は、誰にとっても中途半端な時間だとはいえない。それに気づかせてくれたのは彼女だった。その時間に働いている自分を見て、自分はおかしいのだろうかと疑った。中途半端だとするのは、ロカンタンのように三時に働かなくていい身分に属する人の習慣なのだろう。ロカンタンは、そう考える習慣に馴染んで思考が止まり、主体性を失っていることに気がつき、自分に我慢ができなくなったのだ、と俺は解釈する。

〈第二問〉ロカンタンの、物の存在への嘔吐感はなぜ起こるのか。
〈解釈二〉これにはロカンタン自身の答えがある。
「物は生きていないが、生きているけだもののように自分に触れてくるから恐ろしいのだ」と。
 おそらくロカンタンは、物もけだものも恐ろしいのだ。それについてはサルトルがデカルトについて言っていることを見ればいい。サルトルは、デカルトが見つけた自意識を、唯一人間を物体と見ない、絶対的真理だと言っている。つまり、人間には、物やけだものは自意識のない物体と映り、その物体に触れられることは、自分が物体に引き込まれて、主体的な自由を奪われてしまうように感じ、言いようのない恐怖と嫌悪(=嘔吐)を覚えるということではないかと、俺は推察する。

〈質問三〉ここは文章が長いので要点を短くまとめよう。こんな感じだ。人は生活をするか人に話すかどちらかを選ばなければならない。これはどういう意味なのか。
〈解釈三〉俺はこう考える。
 ここでは、物語することと生活することが対立的に捉えられている。生活するとは、もちろん、さっき説明したように、現実の人生の中で主体的に生きて自己を実現することだろう。
 では、物語をするとはどういうことだろうか。人は、自分のした経験と同じように、直接に他者の経験を体験することはできない。どうしても経験した他者の物語を聞く以外にない。そういうたくさんの物語を聞いて追体験をしながら、人は、自分の望む自己の物語を編み上げて行く。
 でも言葉で編み上げる物語は本当の自己実現にはならない。言葉で何を語ろうとも、そのまま何もしなければ、それが何らかの現実の結果を生み出すことはない。自己は相変わらず元のままである。
 現実の中に自分を投げ出し、自己の限界に働きかけ、一つ一つ、主体的に状況を選び取ることによって実存は形作られるものであり、その行動の結果は、達成して初めて意味や価値を持つことになるからだ。
 たぶん、サルトルは物語することを生活することと取り違えて、安閑と過ごしてはいけないというメッセージを送っているのだと思う、とまあ、こんなふうに話をまとめた。

 彼女は、さすがに倫理学を志していただけあって、俺の拙い説明にも熱心に耳を傾け、思った以上に深い興味と理解を示してくれた。話してよかったと俺は思った。だが、彼女の次の言葉を聞いて俺は頭を抱えてしまった。
 彼女は、こう言った。
「とってもわかりやすく解説してくださって本当にありがとう。なんだか、心がすっきりして、うれしくなっちゃいました。自分の行動を自由に決めて、これまでの自己を越えてゆく生き方に、心から共感します。自由であるためには、自分のすること全てに責任があるんですね。かなり辛いことですけど、これまでのお話を聞いて、この生き方こそ、わたしが、求めていたものだと気づきました。でも、どうやったら、こういう生き方ができるんでしょう?」彼女は掌を組み合わせて、祈るように真剣な目で、となりに腰かけている俺の顔を見上げた。

 彼女の、優しく問いかける声と悲しみの表情に打たれて、俺は言葉を失った。しばし黙考したのち、おもむろにこう答えた。
「サルトルの実存主義哲学を聞いたばかりで、すぐ行動に出るのは難しいでしょうから、一つ自分の経験を聞いてくれますか。あまりうまい例とは言えませんけど、ヒントくらいにはなるかもしれません」

 俺は、他に良い例を思いつかなかったので、身の恥とは思ったが、さっきみんなに話した告白を、彼女にも聞いてもらうことにした。
 それが、彼女の表情を見つめながらいざ話し出すと、それまで気が重かったのに、素直な気持ちですらすらと話せたから、不思議な気持がしたものだ。
 一例だけあげておこう。
 俺は、彼女に自分が経験した二つの絶望について語った。
 両親が、自分の大学合格の日に、何の予告もなしに、突如離婚をし、しかも一人取り残され、絶望したこと。しかし、その後すぐ夜行列車に乗り、京都へ出て下宿を決めた。
それから下宿の一人暮らしの中で孤絶の気持ちを深め、再び絶望をした。そのときも、大学構内を見て歩くうちに、書籍部に入り、手にとったキエルケゴールの「死に至る病」を読んで、憂鬱を払い、哲学を専攻することに決めた。 
 何だか、絶望の安売りをしているみたいだが、その時は本当に気持ちが行き詰まっていたんだ。だが、絶望はしていても、自分は状況を打開するために行動したのではなかったか。後から考えると、あのときが自分に取って重大な岐路だったことが分かる。
 後に「実存主義とは何か」を読んだとき、サルトルは絶望について、こんなふうに語っているのを見て、俺は妙に納得したものだ。まとめるとこういうことだ。
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学