京都七景【第十六章】
「じゃ、次は自分が質問しよう。お互いの通信手段のことは、今の説明でよくわかった。そういう工夫がなければ、あれだけ円滑にはいかなかっただろう。それでだ、質問の方は短くまとめられるから、説明の時間が少なくても受け取れるだろうが、回答の方はどうしたんだい?
哲学の質問に、簡単に答えるのは、まず無理だろう。説明にかなりの時間が必要だと思うが、その辺はどうしてたんだい?」と大山。
「さすがに大山、日常の死角を鋭くついてくるな。
それでも、途中までは、質問を受け取るときに、前の質問の答えを紙に書いて渡していたんだ。しかし、紙に書いただけでは、どうにも理解できない問題が出て来てしまった。哲学の問題は、理解できないときにはどうしても補助的説明が必要になる。それは文字だけではだめで、対話しながら理解を深める必要がある。
あるとき、彼女は思い詰めたように俺を見つめて、こう訴えた。
「サルトルの哲学って、とっても面白いですね。これまでになく興味が湧いて、わくわくしながら、皆さんの話を聴いたり、お借りした本を読んだりしています。でも、理解できないことがたくさんあって自分が情けなくなってしまい、「わたしってダメだなあ」って、ときどき勝手に自己嫌悪に落ち入っています。せっかく哲学を学ぶきっかけをいただいたのだから、もっと、もっと知りたいと思うのだけれど、どうしていいかわかりません。何か、理解のヒントになるようなアドバイスはいただけないでしょうか。それなら、とってもうれしいんですけど」
それを聞いて俺は決心した。やはり、対話で一問一答をしなければいけない。しかし、時間がなければ、対話をすることはできない。いたし方なく、彼女に時間が取れる時はないかと相談した。すると、彼女は、水曜のアルバイト後なら融通が利くと言う。俺が、どれくらいの時間が取れそうかと聞くと、仕事を終えて出るのが、いつも五時半頃だから、それから一時間くらいは大丈夫だと言う。一つの疑問の解明に、一時間を使えるなら、その説明を彼女はきっと理解してくれるだろうと俺は判断した。
ならば、そのまま沁々堂で説明するのが一番簡単ではあるが、さすがに、店長やみんなの前で説明をするのは気がひけて、別の喫茶店に場所を移すことを考えたが、探すのに手間取れば、せっかくの時間が無駄になるし、仮に見つかったとしても、哲学の議論に向いている場所かはわからない。俺は思案に窮した。だが、窮すれば通ず、と言うのは本当だった。はたと思い当たる場所が目に浮かんだ。
百万遍の交差点角にある知恩寺の境内がまさに打ってつけではないか。しかもその敷地は、東大路と今出川通りが交差する北東の角にあるものの、直接の角には、複数の店舗が場所を占め、境内はその奥に引っ込んでいる。
みんなも知ってると思うけど、つまり店を出て、百万遍の交差点に向かって今出川通りを歩くと右側に入り口がある。そこを通って鉤の手に境内を抜ければ、百万遍の交差点から少し北寄りの東大路に出られるというわけだ。
あれだけ多くの人が行き交う百万遍にあって、知恩寺の境内が人通りも少なく、別天地の感があるのは、そのせいもあると思う。それに、彼女の下宿は河原町今出川の交差点近くだそうだから、知恩寺は帰り道の途中でもある。
俺は、知恩寺の境内なら広いし、哲学的対話をしても、誰も不思議に思わないから、どうだろうかと提案した。彼女は快く応じてくれた。
それからは、ほぼ毎週、読書会が終わると大山と神岡に別れて、知恩寺境内で彼女と五時半に待ち合わせ、その後、本堂の階段に腰掛けて彼女の質問に一問一答する習慣になった。大山と神岡には、デートと勘違いされるのを恐れて、あえて言わずにおいた、今ここで謝らせてもらう。本当に申しわけない」
「いや、その心配はいらない。いきさつはどうあれ、これこそデートだしな」と、神岡。
「別な意味で、俺も遠慮させてもらうよ。何しろ立てた仮説が仮説だけに、こちらこそ露野に申しわけが立たん」
「そうか、その気持ち、ありがたく受け止めさせてもらうよ。それで、境内で彼女にした説明なんだが、哲学の話だから、あまり、聞きたくはないだろうけれど、今後の筋の展開に必要なところだけを端折って話そう。
彼女の質問は三つあった。
一、ロカンタンは、その日、何をするにも中途半端な午後三時が、どうして我慢できなくなったのか?
二、ロカンタンの物の存在への嘔吐感はどうしてなのか。例えば、砂浜で手にした石に吐き気を覚え、取り落としてしまう。彼は物に触れることを極端に恐れている。物は生きていないが、生きているけだもののように、自分に触れてくるから恐ろしいのだと言っている。
三、ロカンタンは、人は常に物語の話し手であり、自分の作った物語と他人の作った物語に囲まれて生活している。彼は日常の経験を、これらの物語を通して見る。そして他人に話すかのように、自分の人生を送ろうと努力するのだ。しかし、生活するか人に話すかどちらかを選ばなければならない、と書いている。これは、いったい、どういう意味なのか?
どれも、難しい質問だが、彼女にとっては真剣に解決したい問題だった。
『嘔吐』という作品はサルトル思想の萌芽にあたる作品だから、その後結実した実存主義から、振り返って見て初めて、それぞれの表現が意味を持ってくるのではないか。そう、見当をつけたので、俺は、一知半解を恐れずに、サルトルの「実存主義とは何か」という本を頼りに実存主義の解説を彼女に試みた。
自分の理解したところでは、サルトルはこう考えているらしい。
一、この世界には、今、存在しているものしか存在しない。しかもそれらが存在することに必然性はない(サルトルは、神がそれらを創造したという立場を取らない)。
二、中でも人間は特別な存在である。
人間は生まれながらに人間ではない。生まれたとき、人間はまだ何ものでもない。生まれたあとで初めて人間になってゆく。しかも、人間には決められた生き方や目的というものがないから、自分が今、そう考えている通りの存在であるというだけでなく、自由に条件を選択して、自ら望むところの存在に飛躍して行くことができる。(この人間のあり方を実存と言う)
三、なぜそのようなことができるかというと、人間が自意識を持っているからである。自分に意識を向けて、自分の行動や考えを記憶して反省するから、これまでとは違う自分になろうと望むことができる。
四、ではその自意識は誰でも持てるものなのか。
それはデカルトの学説から来ている。デカルトはすべてのものの存在を疑った後で、それを疑っている自己の存在(つまり、自意識)は決して疑いえないと考えた。これは自意識についての絶対的真理である。ここから二つのことが出てくる。一つは、デカルトが人間を物体と見ていないということ。それから、他者にも同じ自意識があるということ。
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学