京都七景【第十六章】
申しわけないですが、私からはなんとも言えません。ただし、あと一言。ちゃんとした理由がある。そうお伝えしていいと思います。ところで、もう一人のメンバーがいないけど、今日はどうかしましたか?」
「ええ、予定があって、今日は来られないそうです」と、ぼくは、露野の了解も得ずに勝手な返事をしてしまったことを、本日ここに白状する。申しわけなかった」神岡は、すまなそうに頭を下げた。
「いや、いいんだ。それもこれもみんな、俺から端を発している。だから気にしないで先へ進めてくれ」と、露野がくぐもった声で促す。
「ありがとう、気を遣ってくれて。では、先を急ごう。
ぼくは店主の言葉に、こう続けた。
「何か、ぼくたちにメッセージとか、なかったですか?」
「とくに、なかったと思うなー。ああ、そう、そう、今日来ていないメンバー宛にひとこと伝言があったかな。
水曜日の彼女の帰りがけに、一通の小さい封筒を渡され、読書会が終わって会計をするとき、レシートと重ねてさりげなく渡してほしいと言われましてね。で、その通り渡しました。もちろん封がしてあるから、中に何が書いてあったかはわかりません。仮に封がしてなくても見たりはしませんよ、人としてね」
僕と大山は、もうこれ以上の情報を得るのは難しいと判断して、いつもの席に戻り、現状から推測できることと今後の対応策について話し合い、それからテーブルに置かれている、冷めたコーヒーを一息に呑んで、沁々堂を後にした。
以上、一連の二人の行動から察して、僕と大山は、こう結論を下すことにした。残念ながら、やはり、露野は失恋の辛い憂き目にあったのだと。
ぼくらは、ここに至るまでの二人のこんなストーリーを思い描く。
露野は、第一印象こそよくなかったものの、彼女に好感を抱いた。
その後、彼女が哲学好きで読書会に参加希望だと聞いたときから、彼女にますます興味を持つようになる。
そうして読書会の仲介役として接触を重ねるうち、彼女の哲学への真摯な態度と関心の深さに、彼女への思いはいよいよ募って行った。
しかし、いくら思いが募っても、露野の性格上、自分から行動に出るのはためらわれる。ところが、思いは、そんなことに関係なく、ますます高まって行く。どうしたらいいのか決心のつかぬまま、読書会だけが回を重ねて行く。
そして、ついに最後の読書会となった。
露野は、彼女に会えるのも今日が最後と思うと、もはや自制心も効かず、時も所も弁えず(失礼)、ついに思いの丈を打ち明ける手紙を渡した。
彼女は手紙を受け取ってくれたものの、心中では、明日帰省して、もう京都には戻らない覚悟である。その辛い覚悟の中から(ちょっと潤色)、彼女は一筆したため、店長に託した。
露野は、彼女が去った後にその手紙を受け取り、彼女の覚悟を知って呆然となった。傷ましいことだが、絵に描いたような悲恋だ。ぼくは、同情にたえない。」
神岡の言葉に、みんな肩を落として、しんみりとなった。その雰囲気を払うように、神岡は、両手で自分の頬を軽く二回ほど叩くと、明るい声で言った。
「さあ、これが、僕と大山の想像する仮説だ。これを、露野に検証してもらいたい。どうだろう、露野、やってもらえるかい?」
「うむ、そうする。うまく説明できるか自信はないが、どうやら、そのときが来たようだ。それに、だいぶ時間が経って、次の野上に、これ以上迷惑はかけられないから、できる限り簡潔にまとめて話そう。では、始めるよ。
まず二人の仮説だけれど、感動的恋愛探偵小説を読むようで、自分のこととは到底思えないほど純粋に話を楽しむことができる。その上、洞察に富む筋書きには、とても感心した。どうもありがとう。
でも、話が小説みたいだからといって、全部が二人の作り話だと言っているわけじゃないよ。それどころか、だいたい六割はその通りだ」
「ええっ、六割なのか? 八割か九割は行く自信があったんだがなあ」と、神岡ががっかりする。
「事実は小説より奇なり、と言うじゃないか。無責任な言い方をして、露野には申しわけないが、その方が逆に好奇心をかきたてることになる」と大山。やはり大人(たいじん)、大所高所からの目配りが利いている。
「違っているのは、最後の読書会で渡した手紙の件と、彼女が翌日郷里に帰った理由のところかな。微妙で触れたくないところもあるが、結論的には二人の言う通りだと思う。
では、ここから、みんなが、ぜひ聞きたいという必須の質問にだけ答えることにしてもいいだろうか?」
「もちろんさ。それじゃ、僕は一連の流れを説明したし、ある程度事情もわかっているから除外してもらってかまわない。残りは、大山、野上、堀井それぞれ、一番聞きたいことを質問すれば、ちょうどいいのじゃないだろうか」
「それじゃ、この話には初心者の、俺から質問を始めてもいいかな?」と、いつになく、わたしが先頭を切る。
「簡単なことかもしれないけど、店長に気づかれずに、どうやって彼女と質問のやり取りができたんだい?神岡も大山も直接には見ていないようだからね」
「確かにその通りだ。読書会の冒頭で、毎回とは限らないが、俺が彼女の質問を報告するのを、二人とも不思議に感じていたと思う。彼女の仕事は一時から五時までの四時間。ずっと立ち働いたままだから、こちらから声をかけることもできないし、彼女に来てもらうのも、店長の目があるので、それもできない。
最初の雷雨のとき、もし他に来る日があれば、そのとき疑問点を教えてもらえればいいと言ったんだが、彼女は、水曜以外の平日は学校の授業や課題に追われていて、アルバイトはしていないと言う。
二度目の雷雨があったときのことだ。あのときも俺はトイレに行き、偶然中庭で、彼女と出会って立ち話をした。そのとき、折よく、彼女の質問を聞くことができた。
これだと思った。彼女が食器の片づけで中庭に出たときを見計らい、自分がトイレに行けばいい。そのとき質問を書いたメモでも渡してもらえれば、うまく行く。
しかし、そんなことを何度も繰り返していれば、お客の中には、たいてい目敏いものがいて、あの店員さんが中庭に出たとき、必ず後からトイレに行く男がいるけど、おかしくありませんか?気をつけたほうがいいですよ、などと、店長に注進に及ぶものが出たら、彼女の迷惑は計り知れない。どうしたものかと困っているうちに、思いがけないところから解決がついた。
二回に一度はやって来る、雷雨のおかげだった。おそらく今年は雷雨の当たり年か何かだろう。もちろん、こちらの期待通りにはいかなかったものの、雷鳴が鳴って、雨が降ってくるたびに、俺は必ずトイレに行くようにした。するとその帰りに、彼女がいつも食器を片づけているところに行き合った。そのときに、彼女は、上着のポケットから小さな紙片を取り出して、俺に渡してくれるようになった。これで相互の連絡がなんとか取れるようになったというわけだ」
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学