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京都七景【第十六章】

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 これはまずい。《露野が何か失礼なことをしたのではないか》という疑念が、僕の頭を、走馬灯のように駆けめぐった。ま、走馬灯は修辞だ、見たこともないが。
 僕は一瞬にして、露野の渡した封筒と彼女のあわてた様子とを結びつけた。頭の中で疑念が疑念を呼ぶ。
 まさか露野が、こんな人中(ひとなか)の、しかも友人の目の前で、よもや恋文など渡すはずがないではないか。でも、それにしては、彼女の二十分後からの行動が、それを裏切ってはいないか。
 僕は瞬時に、次のような解釈をした。露野がいまだに弁解しない以上、その解釈に間違いはないものと思っている。それ以降は、気が引けて、露野に再び確かめることはしていないが、めったにない機会だから、露野、僕の解釈をまた話してもいいかい?」
「うん。いいよ。あのときは何も答えずに、すまなかった。気持ちの整理がつかなかったんだ。今夜は俺もきちんと話すつもりだから」
「それじゃ、僕の解釈を述べるよ。ただし、大前提として、露野の手紙が恋文(古風だが、露野には相応わしい言葉と思う)の場合に限るから、それだけは忘れないでほしい。
 さて、手紙を渡された彼女に動じる気配は、いささかも見られなかった。しかし、これは、『嘔吐』論争のときに見られた、先に人の気持ちを察して行動し、後で後悔するという、彼女のいつもの癖らしく(そこがまたとても魅力的なのだが)、差し出されたものを読まずに断るのは失礼と感じて、反射的に受け取ったのだろうと、僕は推測する。
 露野には、こんな仮説を立てて申しわけなく思うが、彼女は、外見を平静に装ったものの、内心は穏やかでなく、困っていたことだろう。
 しかも、この日、彼女にはアルバイトを早めに切り上げなければならない事情があったようだ。柱時計が午後四時になると、あわてて奥に引込み、しばらくしてから、普段着姿で現れたのだから。
 だが、あわてた理由はそれだけではないように思う。彼女は、少し天然自然なところ(そこも彼女の魅力ではある)があるから、時計を見上げているうちに、すんなり受け取ったその手紙が、付け文(古風ですまん)ではないかと、やっと思い当たったに違いない。
 だから、この「しばらくして……現れた」という表現が重要になる。着替えの時間だけなら、そんなに長くかかるはずはない。特に急いでいるときである。ぼくは、この「しばらく」に、彼女が普段より身支度に時間がかかっているという意味合いを含ませている。  
 それだけの時間は確かに経っていた。
 その間に、彼女は手紙を読み、露野に誤解を与えてしまったことに愕然となり、こうしてはいられないと即時の行動に出たものと思われる。
 だいたい、この手の問題には、即座の対応が要求される。少しでも時間をおけば、相手は自分の都合のいいように(すまん、露野)、解釈してしまうものだ。それは避けなければならない。そう思った彼女は、ひとまず店長に救いを求めた。一通り事情を説明し、後事を託して、頭を下げ、急いで辞去しようと出口に向かった。しかし、ここで、あることに気がついた。
 今日は読書会の最後ではないか。彼女は、決して礼儀を忘れるような人ではないから、きちんとお礼を言わなければと思ったのだろう。あわてているのに、わざわざ、ぼくらの席まで来て礼を述べてくれた。それから、露野の手紙には一言も触れず、皆に一礼して出て行った。
 それが、ぼくらが見た、彼女の最後の姿だった。というのは、それ以後、彼女は店に顔を見せなかったからだ。しばらくは三人とも、そのことに気づかないでいた。気づいたのは、翌週(つまり七月第一週)の水曜日の午後だった。
 すでに、読書会は終わっていたとはいえ、露野の手紙が、大山とぼくに与えた衝撃は、ますます大きくなるばかりだった。しかも、たとえ心が急いていたにせよ、彼女が露野へ何の言伝も残さず店を出て行くという劇的な展開も、気になって仕方がなかった。
 事件当日の午後は、大山とぼくも気持ちが動転していて、ついつい、彼女に渡したのは恋文だったのか、とか、どうしてあんな人目に立つところで渡したのか、などと露野を質問責めにして困らせ、今は本当に申しわけないことをしたと思っている。
 あのとき露野は、「気持ちの整理がつかないので、今は何も聞かないでほしい。いずれ、時がきたら必ず話すから」と言ったきり、この件に関しては頑として沈黙を守り続けている。
 いくら、ぼくらの目の先三寸のところで起きた事件とは言っても、やはり、露野のプライヴァシーは守られなければならない。いずれ、露野の問わず語りに期待をかけることにして、ここは、ひとまず翌週の水曜日、新鮮な意見で読書会を活発にしてくれた彼女に、お礼方々露野の件も詫びておこうと、大山とぼくとの相談で一決した。
 露野を誘うのは諸般の事情からやめておくことにした。ぼくらがいっしょでは何かと困るだろうし、返事をもらうなら、彼女が仕事を終える頃に一人で来るだろうと思ったからだ。
 で、とうとう、その日が来た。いつも通り、午後三時に「沁々堂」のいつもの席に座って彼女が注文を取りに来るのを待っていると、なんと来たのは初顔の若い男性店員じゃないか。ちょっと驚いて、注文の後で、「いつもの女性の店員さんは、今日いらっしゃいますか。会って、先日のお礼を言いたいのですが」と、訊いてみた。

 その男性店員は、こう答えた。
「今日は、ぼく一人だけで、女性店員はいませんよ。今週の月曜から働き初めたもので、それ以前のことは、全然わかりません。でも、今日まで女性の店員さんを見かけたことは、ないですね。あの、もし、よかったら店長に聞いて来ますが、どうしますか?」

 ぼくは大山と顔を見合わせ、早速お願いすることにした。男性店員は店長のところに行き、話しを聞いた店長が、大きく頷いて、すぐにぼくらの席までやって来た。ぼくらは立ち上がってお辞儀をし、それから同じ用件を丁重に繰り返した。

「ああ、そうでしたか。それは会えなくて、残念でしたね。実は彼女、先週で仕事を辞めて、郷里に帰ったんですよ。たしか、仕事の最終日が、引越しサービスに荷物を預ける日と重なって、一時間早く帰るのを気にしていたな。あれは水曜日だったか。木曜の夜行列車で郷里に帰ると聞いていましたから。そういえば、みなさんの読書会も水曜日でしたね。あのときは、会えなかったですか?」
「いえ、会うには会えたんです。でも、二言三言かわしてさっと帰られたので、お礼を言う暇がなかったものですから。
 彼女のおかげで、議論が活発になり、いい読書会ができたので、今日は、その感謝をきちんと伝えようと二人そろって来たんです。まさか、故郷に帰ったなんて思ってもいなくて、びっくりしました。で、次はいつ戻って来ますか?」
「もう、戻って来ないと思いますよ」
「ええっ!何か事件でもあったんですか? あ、いや、そこはプライバシーの問題で、聞けないか。ごめんなさい」
「いや、言ってかまわないかな、どうだろう?でも、推測でものを言うのは、よくないからな。口に出してから誤解が生じたら、取り返しのつかないことになるし。うん、うん、そうだ。ここはやはり、やめておこう。
作品名:京都七景【第十六章】 作家名:折口学