沼
09:ルーキーと雪起こし
こうして一人が二人になった小屋の生活だが、一人のころと比べて非常に楽になった。新しく加わったタケオは、実に色々なことによく気がつきすぐ実行に移す少年で、一緒に暮らし始めてほんの1週間ほどで彼は、この小屋になくてはならない存在となっていた。
朝、彼は私よりも早く起き、まず朝食の用意にとりかかる。10代といえば眠りたい盛りだろうし、そんなことはおじさんに任せておけば良いと、私は断ったのだが「お仕事で大変でしょうから」と言って、その日の朝食を手早く作ってしまった。その日の夜二人で話し合いを行い、せめて交代制にしようということで話がまとまり、一旦は彼もそれを受け入れた。だがものの数日で、なし崩し的に朝食作りは彼の担当となってしまった。
私が仕事に出掛けてからは、タケオは小屋の中で一人勉強をしているようだった。恐らく、田中さんの言いつけをちゃんと守っているというのもあるだろうが、彼はここに来る前からちゃんと勉強をする癖がついていたようだった。なぜなら、私が仕事から戻ってきてから、どうしてもわからない漢字の読みや、あまり理解が進まなかった計算などを私に聞いてくるからだ。私も決して学がある方ではないが、大学時代、家庭教師のバイトをしていたことがあった。なので中学校の学習内容ならどうにかカバーすることができた。しかし、タケオがちゃんと勉強をしているという事実には、いささか私も恐れ入った。中学生の頃の私など誰かが見ていなかったら、勉強なんか手につかなかったものだ。それを彼は毎日きっちり行い、ちゃんと疑問点を私に聞いてくる。見事という他なかった。
一方、夕食の支度は、主に私の役目だった。やはり軽めの朝食よりは準備に時間がかかることが多いこともあって、タケオもこちらのテリトリーまでは侵食してくることはなかった。だが、夕食はたまに田中さんとともに豪勢なものを作ることもある。その時はさすがに総動員だ。タケオも狩りだされ3人で準備に勤しむ。その際に見ていると、タケオの手際は非常に良い。包丁などの刃物も使い慣れている。どこかで習ったのかと聞くと、「学校の家庭科の授業だけだ」と言う。家庭でも手伝い程度のことはしても、特に自分で料理をしたことはないとの言に私と田中さんは鍋を囲みながら感嘆したものだった。
タケオはやはり私によく懐いていたが、田中さんとの仲も決して悪くはなかった。タケオもどうやら生き物の飼育に興味があるようで、二人で水槽の前で長時間話し込み、アクアリウムのいろはを教わっていることがしばしばあった。私はアクアリウムには興味を持っていなかったが、二人が楽しそうに会話をしているのを傍らで聞いているだけでも、なんだか嬉しい気持ちになっていた。
だが、タケオが私たちに与えた一番の影響は、こういった実際的な部分よりも精神的な部分のほうだったように思う。私も田中さんももう中年と言っていい年だ(具体的な年齢はお互い明かしたことはないが)。そんな二人の中に、中学生が突如飛び込んできた。襟を正さなければと感じるところがあったり、教えなければならないところがあったりと、考えさせられる場面が多くあったのだ。だがもちろん、そういった後ろ向きな部分だけでなく、タケオの若さゆえの明るさが我々を元気づける場面も少なくなかった。
だが、もちろん良いことばかりでもない。タケオが来てからというもの、私は深く考え込むことが多くなっていた。具体的には、この無垢な少年の将来についてである。
タケオがいつかこの生活に飽きて、ここではないどこかで自立してくれるのであれば、それに越したことはない。別れは悲しいものではあるが、彼の将来を考えればこの寂しい小屋の中にいるより、別の世界に行った方が良いと感じるのである。だが、彼がいつまでもこの小屋に居て、この仕事をして生きていきたいと言い出したらどうすれば良いだろうか。もっと世の中には様々な職業があるということを教え諭すべきだろうし、せめて高校を出ておいた方が色々とつぶしが利く、という現実を教えておく必要があるのではないかと思う。
だが、現状を見てみると、そう上手いこといくだろうか。もうすでにタケオは、目の前のこの華のない地味な仕事に興味津々なのだ。夕飯のときも、あれこれ仕事の内容を聞いてくるし、私たちが困っていることについて、タケオなりの見地から提案もしてくれる。たまに雑用役として仕事に連れていくときの目の輝かせっぷりを見てしまうと、どうもこの無垢な少年はこの仕事に本気で憧れている可能性が高いのだ。かつて自殺を考えた男がやっている(だからと言ってもちろん楽な仕事ではないが)この仕事を。だからタケオが、近い将来この森を護る仕事をしたいと言い出す可能性は高い気がする。杞憂で終わればいいのだが……。
だが、この件についても田中さんは楽観的に捉えているようだ。前に一度、この懸念を打ち明けたとき「そん時はそん時さ。ま、なんとかなるよ」と言うだけで、彼はさして問題にしていなかった。私もそのように楽に構えるべきだとは思うのだが、どうしても責任感という名の重しが付きまとってしまうのだ。
先日のことだった。
ここでの仕事に、雪起こしと呼ばれる作業がある。簡単に言うと雪が積もって幼い木が曲がって育ってしまうことのないよう、縄などで固定をする作業のことである。この年は雪解けかと思ったら雪が降る非常におかしな年で、この雪起こしの作業を頻繁に行う必要のあった年だった。
田中さんと私は、この雪起こしの作業に追われていた。本当に、猫の手も借りたい状況だった。そんな雰囲気をタケオが察知しないはずがない。すぐさま、何でもやるから自分も連れていってくれと願い出る。私は、先述した彼の将来のことが頭によぎったが、人手の少ない今の状況を思うと、そんなことは言ってられない。私は彼を連れて、田中さんとの待ち合わせ場所へと行くことにした。
先に待ち合わせ場所で待っていた田中さんは、タケオの参戦を当然のごとく賛成した。田中さんは私のように、彼の将来を憂いてはいないのだから至極当然のことだろう。私たち三人は雪起こしの作業を開始した。
タケオには支柱や縄の管理を主にしてもらい、私たちはそれらで若い木を垂直に固定していく。そうやって作業を行っていくうちに、それらの若い木がタケオのように思えてきてしまう。
別に今のこの環境が、雪のような異物によって曲がってしまった環境だとは決して思わない。親を亡くし、学校でいじめられているのであれば、一時期こういった場所に退避することも良い手段ではないかと思う。しかし……。
「また、坊主のこと考えてんのか」
田中さんに声をかけられて、私は我に返る。
「大丈夫だって。あいつは思ってる程子供じゃないよ。よっ」
そう言って田中さんは縄で縛られた幼木を引っ張った。
きっと、田中さんの言う通りなんだろう。私はそう思い、タケオについてを考えることを止めた。だがその代わりに浮かんできたのは、香矢のことだった。あの子は今何をしているだろうか。まっすぐに育っているだろうか……。尽きない思考で頭をもやもやさせたまま、雪起こしの作業は進んでいった。