沼
08: 暗闘、再び
あの時と同じだった。
沼から少し離れた小屋の中。一斗缶から噴き出る炎。溺れたものを優しく包み込む毛布。そっと渡される温かいスープ。
違うのは、スープを渡される側だった私が、渡す側になったこと。毛布にくるまれているのが、年若い少年になっていること。この二つだけだった。
「…………」
スープをすする少年を眺めながら、彼の身に何が起こったのかを思い描いてしまう。いじめ? 失恋? それとも家庭環境? いくらでも思い浮かんでくる理由で、頭がいっぱいになる。
……しかし、理由を聞きたいのはやまやまだが、それを聞いたって私には解決できない。医師でもカウンセラーでもない一介の作業者の私には、彼の命を救えても彼の悩みまでは解決できない。
(田中さんも、同じことを考えたのだろうか)
かつて立場が逆だったとき、田中さんが私に理由を一切問わなかったことを思い出す。私は未だに、彼にここで死のうとした理由を話していない。私も彼に理由を尋ねることだけはやめよう。それだけは絶対守ろう。それが田中さんから学んだ一つの大きな教訓だ。
少年はスープを飲み終わり、皿を脇に置く。毛布に包まった状態でもまだ寒さを感じるらしく、一回くしゃみをする。そして、またあの時のような沈黙が流れる。
「まだ寒いかい?」
私は一斗缶に枝を入れ、火の勢いを加速させる。少年は何も言わず、手の平を炎に当てて暖まるポーズをとる。
「……」
再び流れる沈黙。私はどうすればいいのだろうか。
冷静に考えれば、彼の話を聞くだけの立場でいいはずだ。別に彼が身の上話をしたいというのであれば、それは吝かではない。だが、彼が話をする可能性は低いだろう。カバンを見ると、彼は近所の中学校に行っているようだ。中学生ということは12〜15歳の思春期真っただ中。その彼が、死を選ぶ理由を見ず知らずの大人に話そうとするだろうか。私ですら話すのを躊躇したほどだ。話すとは到底思えない。では、彼は何を話すだろうか……。
部屋はまだ沈黙が支配していた。少年は下を向いたまま、暖まり続けている。その少年の横顔を見ながら、私は恐ろしいことに気づいてしまった。
この少年が、一切何もしゃべらない可能性もあるかもしれない。助けはしたものの、このくらいの年の少年が心を開くとは限らない。思春期の心は複雑だ。自身が溺れている場面を見られて恥ずかしくなり、かえって心を閉ざしている可能性すらある。その場合、どうすればいいだろうか。ただ黙って返すわけにはいかない。再び死を選んでしまう可能性もあるから。せめて、死のうとすることは、一人の大人としては思い留まらせないと。しかし、どうやって思い留まらせればいいのだろう。果たして私の言葉で、この少年は思い留まってくれるのだろうか。
俄に降ってきたこの重大な使命に、私は恐れおののいていた。10年も前の話とはいえ、私だって死のうとした男だ。今だって、何かが崩れれば再び沼へ飛び込みかねない。そんな男が他人の死に対する誘惑を翻すことができるのだろうか。
いや、それは弱気になりすぎだ。逆に言えば、私も一度死のうとした身なのだ。今、彼に一番親身になれるのは、間違いなく私のはず。かつて同じことを考え、同じ沼で同じことをしようとした、他ならぬ自分こそがこの少年に手を差し伸べられるはずだ。
半ば、自分を鼓舞し奮い立たせるために思考していた。しかし、肝心の彼にかけるべき言葉が全く思いつかない。
「死ぬんじゃない」とでも言えば良いのだろうか。いや、それは違う。それは、私が彼の立場だったとき最も嫌だった、安っぽい人生哲学と言う奴だ。「死ぬんじゃない」、この言葉自体は正しい。だが、今ここでそれを面と向かって突き付けたって何にもならない。おそらく彼は、その正しいことを踏みにじってまで死のうとしなければならなかったのだ。十二分に死んじゃいけないことはわかっている。それでもこの道を選ばざるを得なかった。だからこそ、この言葉ではなく、別の言葉が必要なのだ。じゃあ、なんて言えば良い? 田中さんは、私を仕事に勧誘してくれた。それは結果として、正解だった。だが今回はそうもいかない。まだ義務教育中の少年を、仕事に誘うわけにはいかないのだ。
……沈黙に包まれたまま、何分が経過しただろう。そろそろ何か話しかけなければ。だが、相変わらず思考は宙をたゆたうばかりで、ろくろく考えがまとまらない。
ええい、ままよ。話し始めればどうにかなる。私は何も思いつかぬまま、彼に声をかけようとする。
「なあ……」
「あの……」
またもあの時と同じだった。私が声を出した瞬間に、少年も話し始めようとする。そしてお互い譲り合う。なぜだろうか。単なる偶然とは思えない符合がここ一帯にはあるのだろうか。
今回の私は頑なに少年に話の主導権を譲り続けた。何を話していいのかわからないのだ。まずは聞く方に回った方が良い。そうすれば、おのずと話す言葉も見つかるかもしれない。すると、少年が重い口をやっと開いた。
「俺、学校でいじめられてて……」
なるほど、いじめか。よくあること、という言い方は大変失礼だが、中学生が自殺を企てる理由としては、多分よくあることだろう。もちろん、いじめられている当事者にとったらこんな言葉で括って欲しくはないだろうが。
「で、父ちゃんと母ちゃんが三ケ月前に事故で死んじゃって……」
……両親が? 中学生の身の上でそれはかなり大変だろう。私ももう両親を亡くしているが、亡くしたのは家庭を持っていた頃だ。それでもやはり親を失うのは胸が張り裂けるほど悲しかった。……だが、私にはどうすることもできない。親代わりになってやることなどできやしないのだ。彼の境遇に心中で同情を寄せていると、少年は私のそばに来て、土下座をして叫んだ。
「だから、俺をここに置いてください! 仕事の手伝いでも何でもしますから!」
私は、彼の突然の申し出に目を白黒させてしまった。確かに彼の境遇には同情すべきものがある。私としても、彼の力になれるならなりたいところだ。だが、この小屋に住まわせるとなると、やはり問題が付きまとう。まず然るべきところに知らせないと誘拐や行方不明と間違われるだろう。それにまだ中学生、義務教育だ。いじめられているとはいえ学校に行ってもらわないと。それに……。
考え込んでいると、小屋のドアが開く。ちっとも来ない私を心配して、田中さんがやってきたのだ。
「なんかあった?」
田中さんは、毛布に包まれた少年と私を見て、ある程度察したのか小屋の一角に座り込む。私は少年に田中さんを紹介し、彼がここに住みたがっていることを話す。
「うん。住みたいなら住めばいいよ」
田中さんは事も無げに言う。私がさっきまで考えていた懸念を話すと、田中さんはやはり事も無げに言う。
「それ、上に言っとくわ。多分何とかなるよ」
上というのは私たちを雇っている富豪のことだろう。この辺の名士でもあるらしいし、両親のいない中学生の男子を引き取って保護する位のことはできるのかもしれない。
「だけどな、坊主」
田中さんは少年に言う。
「勉強だけはちゃんとしような」
こうして奇妙な符合が積み重なり、その少年――タケオと私は小屋で同居をすることになった。