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07:どこかで見た光景



 思えばその日は始めから、何かが起きるような気がしていた。

 小屋で目を覚ました瞬間、上記のような予感がうっすらと、だが確実に私の心中にわだかまっていた。それが良いことなのか、悪いことなのかまではわからなかったが、間違いなく今日という日は、平穏に終わることがないであろうという予感が、私の中にはっきりと存在していたのである。その日の予定は、田中さんと近くの山で共同作業を行うはずだった。だが早朝の今、私は小屋の中で一人きり。この予感を誰かに相談したりすることもできず、胸に一人しまい込むしかなかった。
 朝食の煮炊きをし空腹を満たしたが、それでも予感は収まることを知らずに、深まっていくばかりだった。作業に出掛ける準備をしながら私は、もうすでに今日は何かが起こることを確信し、「せめて悪いことでなければいいが……」という、半ば祈りのような後ろ向きな思いを抱くようになっていた。
 田中さんと共同で行う作業の待ち合わせには、まだまだ時間がある。私はしばらくの間小屋の中でどうすればいいか考えこんだ。まず、作業をすっぽかすわけにはいかないだろう。大体、嫌な予感がするから今日は行きませんなんて言おうものなら、いくら田中さんでも激怒するに違いない。だが、このまま時間まで小屋で待機しているというのも苦痛だ。この予感に急き立てられて、居ても立ってもいられなくなってしまう。その時、私の頭に一つの案が閃いた。
 沼の様子を見に行こう。散歩がてら沼まで歩いていって、そして帰ってくれば、丁度良い時間になる。元々私は、気分が沈み込むことがあれば一人で沼に行き、そのほとりでしばらくの間佇むのを常としていた。私の第二の人生、その再生の象徴であるあの沼の近くにいるだけで、心に安らぎを覚えるのだ。こんな胸騒ぎの予感がするときに、沼の癒し効果があるかまではわからないが。だが、とにかく沼へ足を運んでみることにしよう。それに、沼の底に仕掛けてある網に魚がかかっていれば、今日会う田中さんへのいいプレゼントにもなるだろう。彼は小屋にある水槽の魚を、もう少し増やしたいと常々考えていたようだから。
 私はその思いつきを実行に移すべく、小屋を出て沼へと歩き出す。何の変哲もない晴天。別に鳥たちがけたたましく騒いでいるような様子もない。だが、私の中の予感が収まる気配は微塵もない。とにかくそのような状況の中で、私は仕事前に向かわずともよい沼へと向かった、それだけは確かだった。
 何度も行きつ戻りつした道を歩き続ける。いつも通りの、けもの道にもなっていない道。やがて、沼が遠くに小さく視界に入ってくる。そこから2、3歩、歩みを進めた後、何気なく沼を目に入れた時、私は違和感を覚えた。
「?」
その違和感の原因を確かめようとして目を凝らす。遠目でぼんやりとしかわからない。だがなぜだろう、その景色には強い既視感があった。「前回」は自分がその沼にいたのだから、この光景を自分で見ることができないはずなのに……。
 私は反射的に駆けだしていた。予感の原因はこれだったんだという確信と、その先に起こりかねない悲劇を阻止するために。草がぼうぼうと生えた道を走り続けて沼に近づくにつれ、「その映像」は鮮明になり始める。過去? 現在? 交錯する映像が左右から入り込み、一つのそれを現出させる。

 誰かが沼で溺れている。

 それに気づいた瞬間、いや、既視感を感じた時から私は眩暈がしていた。今沼にいるのは自分ではない、それは百も承知なのに。十年前の死の淵に導かれる自分の姿が、頭に浮かんでしまうせいで。
 目に入ってくるその凄惨な光景に、思わず立ち止まりそうになる。人が死に瀕する場面と言うのは、こうも残酷なのだろうか。だが、そんなことに思いを馳せている余裕などない。事態は一刻を争うのだ。今溺れている者は、あの幅の狭い浅瀬にはいない。それは遠目でも明らかだ。ということは、彼 (?)は足がついてない状態で、必死に藻掻いていることになる。
 なぜ、あの沼はこんなにも人を引き寄せるのだろう。10年で二人。これが単なる偶然だとでもいうのだろうか。もしかして、世界は、この沼を取り巻く世界は、輪廻――グルグルと繰り返すように形作られているのだろうか。それとも、私の命を奪い損ねたから、今ここで別の者の命を奪おうというのだろうか。あるいは、あの沼は人を食むことで何らかの養分を吸い取る悪魔の沼なのではないだろうか。……いや、そんなはずはない。私はあの沼に命を奪われ損ねたのではない。救われたのだ。そう、救われたのでなければ、あの時なぜ私は沼の中央まで行きつくことができたのだ?
 沼に対する信頼が揺らぐ中、私はその沼に向かって走り続ける。沼の是非はこの際置いておかなければならない。まず大切なのは人命なのだ。きっとあのときの田中さんだって、この酸鼻を極めた光景を見ながら、そう考えたはずだ。
「おーい、大丈夫かー。今すぐ行くぞー!」
走っている中、必死に声を振り絞り、助けが来ていることを伝える。沼にいる者は、今もバチャバチャと沼の中ほどで死のダンスを踊っている。もう体力も落ちてきているはずだ。可能な限り速やかに救出しなければ……。
 その時、沼へと駆け寄っている私の頭にふと閃いたものがあった。先日、沼の近くにたまたま作業に使う板切れを置いておいたのだった。あの板の中には、丁度良いくらいの大きさのものがあったはず。それを彼の近くに投げれば、溺れている者を素早く救うことができる。私は少しだけ回り道をして、長さ2メートルほどの板切れを一枚つかむ。立場が逆だったころならとてもじゃないが持ち運べなかった板切れも、10年の年月を経て鍛えられた今なら軽々と持ち運べる。
 どうにかこうにか、板切れを抱えた私は沼にたどり着く。沼のほとりには、学生カバンとジャージなどを入れるバッグがきちんと揃えて置かれていた。
(学生さんか……)
思わぬ若さに驚きながら、溺れている者を瞬時に目に入れる。首から上しかわからないが、わりと快活そうな男子だ。しかし、このような少年でも死んでしまいたいなどという思いを持つのだろうか。
 いや、そんな御託はどうでもいい。そんなものは後にして、まず彼を救わねば。私は板切れをすばやく放り投げる。板切れは彼の数メートル手前に首尾よく浮かび、彼は残された力を振り絞って何とか板切れをつかんだ。
 九死に一生を得た彼を確認し、私は肩で息をしつつ安心する。そして、板切れを沼の淵まで引き寄せ、彼を沼から出してやる。彼は制服を着たまま飛び込んだらしく、紺のブレザーが水を吸って重くなっているようだった。その水分と重みが、陸に上がったこの瞬間も熱や力を奪っていっているのがよくわかる。私はそんな少年をおぶり、小屋への道を歩いてゆく。その途中、一度だけ振り返り、つい先ほどまで人を飲み込もうとしていた沼を遠目に眺めた。

 沼は当然のごとく、何も言うことはなかった。ただそこに佇み、今はもう鏡のようになっている沼面をさらけ出しているだけだった。


作品名: 作家名:六色塔