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04:小屋での暗闘



「ほれっ」
助けた男は、器に入ったスープをぶっきらぼうに毛布にくるまった私に寄越す。目の前には頭を開いた一斗缶が、もうもうと炎を上げている。
「まったく、仕掛けておいた網、ダメにしやがって」
口調こそ私を非難しているが、顔は笑っている。あんまり問い詰めたら、もう一度沼に向かいかねないとでも思っているのだろうか。
 何はともあれ、私は自分の足に絡みついた謎の物体が、沼の魚を捕るのに用いる網であることを知った。網を破ってしまったことについては陳謝したいと思ったが、自殺という大きな試みに失敗した今、口を利く気力も頭を垂れる気力も私には残っていなかった。
 彼が差し出してくれたスープは殊の外美味かった。昨晩から何も食べていなかったというのも大きいと思うが、自らがぶっきらぼうに捨てようとした命を、兎にも角にも救ってくれた、そんな男の優しさが沁みたのだろうか。
 私たちは、沼から数百メートルほど離れた小屋の中にいた。私がやってきた方向とは反対の位置に建てられており、木々に視界を遮られているため、私はこの小屋の存在に気がつかなかったのだ。
 小屋の中は、ちゃんと整頓されてはいたが、物が多くごたごたしているという印象を受けた。その中央に、炎が燃え盛る一斗缶がいて、その周囲に私たち。さらにその外周は色々な日用品によって取り巻かれ、それらが一体となってこの小屋は構成されていた。
 男と、スープを飲み終わりいくらか気力を得た私との間には、軽い緊張感を伴う沈黙が流れていた。私には、少なくとも言いたいことが二つある。命を救ってもらったことに対する礼の言葉と、先にも述べた網を破ったことによる謝罪の言葉だ。この場所はどこか、今何時かといったことも、無論訊きたくないわけではないが、今はそこまで優先順位は高くなかった。一方相手の男は、私が何をしようとしていたのか、どういう理由で「それ」をしようとしていたのかを尋ねたいのではないだろうか。自らが助けた手前、それくらいは聞く権利があるはずだ。腹の底にある野次馬根性を隠し、そうのたまうのであろう。それだけではない。こちらが「痴漢して会社クビになって妻子と別れて自殺を図った」そんな返答をすれば、返ってくるのはどう考えたって安っぽい人生論だ。辛くても頑張っている人はたくさんいるんだとか、何があっても死ぬんじゃないとかいった、あの無条件で生を肯定していく唾棄すべき話。そして、私がそれに思わず納得しようものなら、一人の軟弱な男を救った武勇伝として、彼の仲間内に伝染病の如く広まっていくのだろう。
 私は彼の脳内を上記のように勘ぐり、口を開く前からもううんざりしていた。だが、礼や謝罪の言葉を言わずしてこの場を立ち去れるほど私も不作法ではないと思っているし、それを言葉にするためなら、多少の時間この男の話題の種作りにつきあってやることも吝かではない。だが、それをするのは私の礼や謝罪の後にしてもらいたい。生をこれでもかと肯定された後に私が助けてもらった礼を述べたら、なんというか私は打ちのめされてやっていられなくなってしまう。ここまでのことを簡単に言えば、私はこの沈黙の中で相手の男よりも先に━━先手を取って礼や謝罪を述べたいのだ。
「あの……」
「なあ……」
考えが固まって声を出した瞬間、相手の男も声を出す。お互い、相手に譲ろうとしてしまう。先にあれほど、先手を取りたいと願っていたのに。だが幾度かの押し付け合いを経て、私は自身が自由に話をする瞬間をどうにか手に入れることができた。
「網……、すみませんでした」
わたしは、まず網の件から先に切り出す。重要なのは命を救ってもらった方であり、そちらをまず切り出すのが普通と言えば普通だろう。だが私は、先の所謂安っぽい人生論を何よりも恐れていた。命を救ってもらったことに礼を言った後、それを受けて相手のターンになったらもう目も当てられない。だから、そのような展開になりにくいであろう網の件を先に話したのである。
「ああ、それは別に良いんだ」
もともとそれほど怒っていなかったのは、スープをくれた直後の言葉で予想はしていた。そして案の定な返答があったわけだが、次についてはどうだろうか。私としては、次の礼の言葉を伝えれば、こちらの言いたいことはとりあえずなくなる。すなわち、うんざりこそするがいくらでも相手の武勇伝作成に付き合ってあげられるというわけだ。
「あと、助けてくださってありがとうございます」
意外にすんなりと言えた。むろん心から感謝をしているとは言え、面と向かってお礼と言うのはやはり臆してしまうものだ。重大なミッションをすべて終えて、重荷を下ろしたかのような安堵感の中、私は相手の男の出方を待った。
 その間、小屋には再び沈黙が流れていた。聞こえるのは一斗缶の中で燃える木切れのパチパチという音だけ。
 この間を、私は彼がどうやって話を切り出そうか考えている間だと思った。だが、どっちにしたって話は野次馬的な方向にならざるを得ないはず。こちらはもうすでにそうなる覚悟をしているし、その後の武勇伝作りに協力するのも、助けてもらったお礼と考えれば悪くはない。さあ、さっさと死のうとした理由を聞いてこい、そう待ち構えた瞬間だった。
「まあ……、何があったかは聞かないよ」
私は耳を疑った。まさかのど本命が、開口一番否定されたのである。私は一瞬固まった後、対策をとろうと頭をフル回転させようとした。だが、それをする間もなく相手から言葉が重ねられる。
「たださ、無理にとは言わないが、一つお願いがあるんだ」
今までのぶっきらぼうなそれとはかけ離れた優しい口調に、私は思わず食い入るように話を聞いてしまう。
「この一帯さ、近くの富豪の私有地なんだけども、管理しているのが俺だけで、正直人手が足りていないんだ」
男は私の目をじっと見つめて、言葉を繋ぐ。
「あんた、ここで働いてみる気はないか」
仰天した。さっきまで死のうとしていた男に、彼は働けというのだ。確かに私には、もう何もありゃしない。だが、野外で体を動かす仕事の経験もないのだ。私の貧相な体を見れば、どう考えても適性がないことがわかるだろう。
 訝しげな顔をする私に、男は説明した。
「あの沼な。実は中央まで行ける浅い道は、一つしかないんだよ。それも幅50cm程度のな」
一瞬、男の言った言葉の意味を分かりかねたが、その言葉に隠された事実に気づき、呆然とする。すなわち、私はあの位置から沼に入ってまっすぐ進んだから、沼の中央にたどり着くことができ、そして死ぬことができなかったというのか。それらを少しでも違えていたなら、私は今頃……。身震いが止まらなかった。あれほど死にたいと願っていたのに、ものの30分で死を恐れるようになっていた。
「な。変な話だけどさ、あんたにゃまだ生きろって沼が言ってるんだよ。色々あったんだろうけどここで一つやり直してみようや」
男は私の肩をポンと叩く。どうせすぐ向いていないことがわかって、放り出されるだろう。私は、そんな後ろ向きな気持ちでうなづいたのだった。


作品名: 作家名:六色塔