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03:秘めやかな試み



 ……どれほど気を失っていたんだろう。

 草から垂れる朝露に頬を打たれ、私の意識は回復した。だが、目に映る光景がなんなのか、いまいち良くわからない。なんで木々から透ける青空の下、こんな雑草に囲まれて眠っていたんだろう。記憶をつらつらと辿り続け、ようやく昨日の顛末を思い出した。
 ゆっくりと手を突いて起き上がる。顔や服が泥まみれなのがわかる。その次に感じたのが、焼けつくような喉の渇きだった。
 起き上がった目の前には、直径20m程度のほぼ円形の沼が佇んでいた。朝日を受け、早朝の青空を映し出しているその沼は、そよ風が周囲の雑草と水面のさざなみを揺らがせる他は、そこにいるのがさも当然であるかのように、泰然自若としてそこに存在していた。
 私は、沼のほとりに入って顔を洗った。そして、沼の水を掬い喉の渇きを癒す。不衛生かどうかなんて考えなかった。なぜか、それをすることが当然であるかのように、私はそれら一連の作業を、何の疑問も感じずにこなしていたのだった。
 さっぱりしたところで、改めて沼を見渡す。決して大きくはないものの、悠然としたこの沼を眺めているうちに、あの車中の間違い以来、すっかりもやがかかってしまった脳内が鮮明になっていくのを感じていた。そのクリアになった頭で私は考える。私の奥底に眠っていた願望、それを注意深く掘り返していく。しばらくその内的作業をしているうちに、鉱脈を掘り当てた。
 私は、死にたかったのだ。あの日以来、どこか心中にはびこっていたもやもやとした考え。その正体はタナトスだったのだ。これが表面化しなかったのは、恐らく「自殺はいけないこと」という社会規範が、しっかりと私の脳内に固定観念として根を張り続け、邪魔をしていたからだろう。
「そうとわかれば……」
私は、ぽつりとつぶやいた。そう、自分のしたいことがはっきりすれば、それに向かって邁進するだけだ。
 私は周りをきょろきょろと見まわす。死ぬことのできるものを探すために。だが、周囲に見えるのは木々と草、そして目の前の沼のみ。木の枝で首を括ろうにも縄がないし、どの草が毒草だといった知識も生憎持ち合わせてはいない。ならば、可能な死に方は一つ。今、膝まで浸かっているこの沼だ。私は、ゆっくりと沼の中央部へと歩みを進めていくことにした。決して大きな沼ではないが、中央部の深さは私の身長、いや、正確には私の鼻か、を優に超えるだろう。
 死にあたって、後悔はないといえば嘘になる。人生の、特にここ最近のそれについての忸怩たる思いを、払拭したいという思いがあるし、かつて愛した妻だった女にはともかく、香矢にはもう一度会いたい。それらは結局、今更取り返しのつかないことなのだが、それでも今ここで能動的に命を終えるよりは、例え受動的でも生きてさえいれば何かの拍子にかなうのではないか、という考えが私の頭によぎってしまう。だが、それは所詮愚かしい考えだ、というさらに上の俯瞰的な思考が遮二無二押さえつけ、私を沼の中央へと進ませていくのだ。
 私のこの殺人風景(殺す相手は自分自身だが)を、見咎める者はどうやらいないようだった。時間はわからないが、早朝なのだろうか。だが、たとえそうでなくとも、こんな森の奥の小さい沼地を訪れる者はそうそういるわけがない。私は、泥濘のようなぬるぬると滑り潜り込む沼底を、滑らないようにしっかりと踏みしめながら、沼に抱かれるその瞬間のために前進し続けた。
 膝元からスタートした水深は、もう腹のあたりまで忍び寄ってきていた。歩幅は水の抵抗を受け、多少鈍くなりはしたが、それでも沼の中央へと進む━━死のうとする意志は揺らぐことはなかった。
 その次の一歩。それを踏みしめた時だった。ズボリと水深が下がり、胸元まで水に沈み込む。いよいよかという思いと共に、足に何か違和感を覚えた。ぬるりとした沼底とは別に、何かが絡みついてくる感触。私は、それに何の疑問も抱かず、もう片方の足も前へと進めて踏みしめる。
 私はこの時点で、この身に重大な異変が起きていることに全く気づいていなかった。それに気づいたのは、もうあと数歩というところの沼の中央に歩を進めようと、右足を水中で振り上げた時だった。
「……?」
足が上がらない。何かに引っかかっている。私はとりあえず右足を置いといて、左足の方を上げようとした。しかし、こちらも上がらない。先ほど絡みついてきた「何か」が両足を捕らえ、動けないようにしてしまっているようだ。私は、何度か左右の足を持ち上げて、抜けようともがいてみた。しかし、その戒めからは容易に抜けることはできなかった。
 冷静に考えれば、抜けようとして無理に知恵など絞る必要などなかったように思う。なぜなら、もう胸まで沼に使っているのだ。その場にしゃがみ込むことで私の口と鼻は水に塞がれる、このことは容易に思いつく。無理に、沼の中央へと進む必要は全くないのだ。だが、この時の私にはその考えは思い浮かばなかった。否、正確にはその考えは頭の片隅に浮かんではいた。だが、それをしなかったのは、心の奥底に潜む死を厭う気持ちを懸念したからだった。
 言うなれば、私は、沼の中央という自身の足のつかない場所に赴いて、生の世界に戻れないようにしたかったのである。そうすることで、無様な生還を防ぎたいと思ったのである。我ながら、なんという臆病さ加減だろうか。
 だがそんな、自死を上手く、しかも秘密裏に完了させたいという私の願いは、私の両足に絡まっている何らかの縛によって妨げられようとしていた。私は、躍起になって足をめちゃくちゃに動かす。だが、そうすればそうするほど、それは私の足に食い込み、私の動きを閉ざしてゆくのだ。

「おーい。何やってんだー」
不意に遠くから声が聞こえ、私は身を固くする。秘密の行為を見つけられてしまった羞恥で、私は慌てて遮二無二足を動かし、沼の中央に進もうとする。先ほどから何度も試みているその行為。それに今更意味はないだろう、私はそう感じていた。しかし、焦りが功を奏したのだろうか、ブチンという音と共に、私の行く足を阻んでいたものは急速に緩まっていった。
「チャンスだ」
足が自由になり、私は再び私自身の生殺与奪を手に入れる。先ほど声のしたほうから全速力で駆けてくる足音が聞こえるが、まだこちらにつくまでは時間がかかる距離。私が数歩前進し、全身を水中に潜り込ませることに成功すれば、そのまま目的を達成できるのに違いないのだ。私は、その計算通りに沼の中央へと足を進める。あれほど焦がれていた沼の中央。紆余曲折を経てようやくたどり着いたこの桃源郷に、私は足を踏み下ろした。
 意外な感触だった。思ったよりも浅い位置で私の足は止まり、反射的に進めたもう片方の足も同様の浅さで潜行が止まる。私は、腰の高さまで自身を沼から露出し、ぼんやりと水面を眺めていた。どうやらこの沼の底は、極端に言えば山型のレモン絞りのような形状をしていたのだ。
「おい、大丈夫か!」
腰まで沼に浸かり、あらぬ方を見つめている私に、声がかけられる。先ほど声をかけた男がようやくたどり着いたのだろう。

 こうして、私の秘密の試みは失敗に終わってしまった。


作品名: 作家名:六色塔