沼
02:無力な逃避行
離婚届への記入を指示されたことで妻の異心を知った私は、全てにおいてやる気を失ってしまった。これから、先日の件の裁判と離婚の協議、この二つの大きなイベントが待っている身なのにである。このときの私は、周囲の何者にも抗わなかった、いや、抗えなかったという方が正しいだろう。私は、自分に降りかかってきた災難のあまりの大きさに正常な判断力を失っていた。
こういった危機に直面したとき、人間の本性が出るとはよく言ったものだ。危機に果敢に立ち向かう者、危機から逃れようとする者。立ち止まり対策を練る者。さまざまな人がいるだろう。私は、そのいずれでもなく、こういった危機に対し、ただ何もせず流れに身を任せることで延命を図ろうとする人間だった。
私は、件の裁判と離婚の協議共に弁護士を立て、どちらも一任してしまった。そして、コップの水をツンツンつついて飲むあの水飲み鳥のように、弁護士との話し合いでは話をよく聞かずにうなずくだけに終始してしまった。
もやもやとした、まとまらない考えが四六時中頭を悩ませ続けていた。とにかく一人になりたい。ややこしくて面倒くさい現実的なことなど一切考えたくない。そういう思いが心の奥底にしっかりと根を張っている。その上層に、不可抗力を不可抗力と受け止めてくれなかった女子高生への許せない気持ち。一度の過ちすらも許してくれなかった絹代への不信感。その二つが重く圧し掛かる。深層心理にはびこるこの二つの層。それが、私という人間をすっかり厭人癖に仕立て上げてしまっていた。
味方であるはずの弁護士ですら、私はそれほど信を置かなかった。一円でも慰謝料を多く取りたい絹代も大概だが、所詮こいつらも弱った奴の肉を食みに来たハイエナのような者。絹代と大同小異だ。とにかく早く今の私の苦しい境遇を終わらせてくれ、そういう漠然とした願いと、三たび裏切られ、こいつらからも毟り取られてひどい目にあうんじゃないかという怖れとが、心中に渦巻き、前述の通り弁護士の前では、私は首を縦に振り続けるだけの玩具と化していたのである。
裁判と協議、そのどちらもが終わりを告げたとき、私の胸には多少のすがすがしさが一陣の風となって吹き抜けていた。文字通り、けつの毛まで毟り取られて、びた一文無くなってしまった身の上だが、どこか手足に課せられていた鎖を解かれたような、そんな自由な感情になっていたのだった。
ただ唯一の心残りは、娘の香矢のこと。なぜなら、離婚協議で愛娘にもう二度と会うことすら叶わなくなってしまったのだから。
親権が絹代の側へ行くことは百も承知だった。だが、最低でも数ヶ月に1度は会えるよう、取り計らってくれるだろうと高を括っていた。だが、その数ヶ月に1度の逢瀬すらも許さないという仕打ち。絹代は、私から金銭だけでなく、香矢すらも容赦なく奪い去ってしまったのだ。
思えば、この件だけはちゃんとこちらの言い分を、絹代側に伝えておくべきだったかもしれない。それが例え、通らぬものだったとしても。だが、当時はそれをする気力すらなかった。大波に揉まれる木の葉のように、沈み落ちていかないようにするだけで精一杯だったのだ。だが、あの場面でそのような抵抗をしても、どれほどの効果があっただろうか。私には容易に想像がつく。考えるだけでも身の毛がよだつが、絹代は恐らく、私が性犯罪者ゆえ娘に会わせるわけにはいかないと指弾し、その一言で全てを一蹴してしまったに違いないのだ。
愛娘にもう会えない事に気づき、完全にやけになっていた。私は、数少ない自分の家財道具もそのままに、もうすでにマイホームではない家を出た。どうせ絹代は、幼い香矢にすらも、私が痴漢をしたと二言目には言うのだろう。そのようなことを逐一聞かされる香矢が、次第に私を憎み厭うようになるのは至極当然なことだ。そんな光景も、私を憎む香矢も見たくはない。それ故に、一刻も早くこの家を出ていきかったのだ。
行くあてなんかどこにもなかった。醜悪な現実と破滅的な未来からの「逃避」という行動に、目的地などあろう筈もない。とりあえず、覚束ない足取りで電車に乗りつける。路線はもちろん下りだった。人生の転落の原因となった呪わしい満員電車、その上忌々しい会社へと向かっていく上り電車など、足を踏み入れるどころか目の端にすら入れたいとも思わなかった。
人影のまばらな車内で、7人がけのシートの端に腰を下ろす。ほとんど人がいない中、やはり恐怖で腕を組んで体を縮こまらせてしまう。停車駅で人が入ってくるたびに身をすくめ、1ミリでも人の近くに寄らぬよう身を固くする。
停車する駅が、少しずつ馴染みのないものに変わっていき、最終的に路線図でしか見たことのないものになっていく。ここまで来て、私はやっと日がとっぷり暮れている事に気がついた。すっかり暗くなった窓の景色を漠然と眺めながら、仕方なくこれからのことを考える。当たり前だが車中で暮らすわけにはいかない。とりあえず、どこかで電車を降りて宿を求めなければ。そのように思い立った私は、次の停車駅で電車を降り、改札口を抜けた。
改札口を抜けた先は、繁華街でも住宅街でもない、ただの森だった。その鬱蒼とした木々の中へ、ほんのお情けばかりの道が吸い込まれている。困った。こんな人っ子一人いない緑の中では、宿を求めようにも求められない。私は踵を返し、もう一度電車に乗ろうとする。だが、私が駅舎に入る前に、駅員がシャッターを下ろしてしまう。どうやら終電が終わってしまったらしい。
どうしようか。色々考えたが埒が明かない。この森の中に宿泊施設がないとも限らない。私は、その小さな可能性に賭けて道を歩き出し、森の中へと歩を進める。
やはり、というか案の定というか、森の中は森でしかなかった。一夜を過ごせる場所どころか光すらもろくに届かない薄闇の中で、私は道なりに歩き続ける。
「なんで、こんなとこに居なけりゃならないんだ」
ひとりごちたその瞬間、近くで何かばさばさと音がした。夜行性の鳥だろうか。私はビクッと体を震わせ、身を固くする。
その時、これまでに降りかかってきた不幸と今の不安な境遇とがない交ぜになったからだろうか、私は再び全てから逃げ出したいという思いに駆られた。全てを振りほどきたい。自分ではない誰かに何とかして欲しい。こんな暗闇から今すぐ解き放たれて、温かい布団で眠りにつきたい。わがままな自己が前面に押し出され、私は無我夢中で駆け出していた。
どこをどう走ったか、覚えていない。気が付くと唯一の人工的なオブジェクトであった道すらも外れて走っていた。どれくらいの距離を走破したのかもわからない。ひたすら早鐘のように鼓動を打ち、破れそうになっている心臓にも構わず、手と足を懸命に動かし続けた。ただ、木にだけはぶつからないよう、それだけを考えて。
だが、走り続けていればどうしたって限界が来る。手足が次第に萎え、心臓が悲鳴をあげ、息苦しさに音を上げてしまう。私はその場にへたり込み、倒れて意識を失ってしまった……。