沼
01:転落の過程
会社を解雇されることになった。
解雇の理由は、正直なところあまり言いたくない。だが、今更こんなところで包み隠しても仕方がないことなので素直に告白することにする。私は先日、混雑した電車内で女子高生の大腿部に触れてしまったのだ。
いつもの通り、満員電車に揺られて会社へ向かう憂鬱な水曜日。私は、周囲のつり革に空きがなかったので、仕方なくやや脚を広げ、左手にはかばん、右手は空手の体勢で電車の揺れに耐え、その日に催される憂鬱な会議のことについて考えていた。ふと、窓の外を見る。そろそろ、急なカーブに差し掛かる場所だ。私は、つり革に掴まれない故、脚の力のみで踏ん張る準備を整え、揺れに対するショック体制を整える。そのとき、ふいに膝の裏に何かが差し込まれる感触があった。
恐らく、後ろの乗客のかばんか何かだったのろうか、今となってはもうわからない。だが、とにかくそれのおかげで、私の右ひざは折れ曲がった。いわゆる膝かっくんを喰らった形になった私は、体勢を崩し、思わず目の前の「もの」を掴む格好になってしまった。
前にいた乗客、当の女子高生は、唐突に自分の右の太ももを後ろから揉みしだく何者かに驚き、一瞬体を震わせた。だが、果敢に勇気を奮い起こし、体勢を整えようとして必死にその箇所にしがみつく私の手首を掴んだ。
「痴漢です!」
その女子生徒は絶叫と共に、私の手を高々と掲げ上げる。瞬時に周囲の「良識」ある男性たちが私を取り押さえ、私の人生は急展開を迎えることとなった。
つまらない言い訳をすることを許してもらえるならば、一瞬の気の緩みとでも言おうか、とにかく自分の意識が飛んでいた、ぼんやりしていた最中での出来事だった。当然、女子高生の脚など触りたくもなかったし、感触など覚えているはずもない。
降りる予定のない駅で降ろされ、駅員室に閉じ込められる。恐らく、駅員を始めとした色々な人々が、手練手管を尽くして私から自白を引き出そうとしたのかもしれない。もしかしたらそんな事もなく、すぐさま自白をしたかも知れない。こういうはっきりしない書き方にならざるを得ないのは、駅員室に入ってからの事など、全く覚えていないからだ。
その後もどこかへと連れて行かれ、尋問に答えたり、書類に署名をしたりした。それらが一体何を意味するのか、全てが終わった今ならあらかた想像がつくが、そのときは、ぼんやりした霧の中に包まれているようで、はっきりしないまま、周囲の「大人」たちの言うとおりに行動していただけだったような気がする。
素直に、というより言われるがままに自白をしたせいか、私はすんなりとその日のうちに帰宅することができた。だが、安らぎの場所であるはずのマイホームで待っていたのは、汚いものでも見るかのような目をした妻の絹代 (きぬよ)だった。
「会社には、連絡しておいたわよ。明日話を聴くって」
妻は、無感情な声音で私にそれだけ告げ、これみよがしに今年3つになる娘、香矢(かや)の世話をし始める。娘を可愛がる血の通ったスキンシップが、冷たい仕打ちを受けた私の耳にも届いてくる。私は、その声にいたたまれなくなり、早々に自分の部屋へ行き、布団を敷いて眠りにつく事にした。
横になったものの、その夜は容易に寝付けなかった。目を瞑るたびに女子高生のあの叫び声が脳内で鳴り響く。不可抗力だったとはいえ、どうしてあんな事をしてしまったんだろう、後悔の念も容赦なく襲い掛かかる。空が白みかかってきた頃、ようやくウトウトしたものの、それも目覚ましの音にあっさりと破られてしまった。
いつもより二時間早い電車に乗り、会社へと向かう。昨日の一件ですっかり満員電車が恐ろしくなってしまった私は、こうするより会社へ行く手段がないのである。
会社の近くの喫茶店で時間を潰し、始業時間少し前に恐る恐るオフィスのドアを開ける。既に出社していた社員が一斉に私を見つめ、次の瞬間意味ありげな目配せをした。席について数分後、私を呼ぶ声と共に会議室へ来るよう促される。中に入ると、上司と人事のほかに、年始の挨拶でしか見たことのないお偉方がふんぞり返っていた。
妻からは、「話を聴く」と聞いていたが、その内容は一方的な解雇通告だった。私は、「はい」を三回言っただけ、たったそれだけで対話の場を打ち切られてしまった。立ち去るお偉方に、上司はあからさまにへつらっている。部下の失点が自分に響かないようにという魂胆なのだろうか。そんな中、人事は私ににこやかに告げる。
「今日は一応、定時まで居てください」
やることなど荷物整理位しかないのに、夕方まで居なければならないのか。私はドッと疲れを覚えて自席に戻った。
荷物をまとめながらつらつらと考える。ここに勤めてそろそろ30年に手が届こうかという時だった。その間、会社の為なら首を横に振らず、どんなことだってしてきたつもりだ。そこまで会社に貢献してきた男にこの仕打ちはないだろう、そんなふうにあのお偉方に食ってかかることもできたかもしれない。だが、それをしてどうにかなるわけでもなく、そこまでしてしがみつくような気力もなく、そんなみっともないことができるような性格に、どうやら私は生まれついてはいないようだった。
荷物整理を15分で終えた私は、定時までの数時間会社の座席に座り続け、周囲のひそひそ話の餌にされ続けなければならなかった。そんな針のむしろ状態の私に、一言でも優しい言葉をかける者など、一人も居やしない。せいぜい飛んでくるのは、定型的な「お疲れ様でした」、「お元気で」という言葉たち。そういった言葉をかけてくれた少々仲の良かった同僚たちも、言葉をかけ終わればいそいそとひそひそ話の輪の中に戻っていくのだ。
そんな地獄の責め苦のような社内での時間が、やっと終わりを告げる。私は、再び混雑を避けて空いている時間まで待ち続け、座っていても腕を組む細心さで電車を乗り継いだ。
そして今、私はマイホームのドアの前に立っている。
しかし、これから私はどうすればいいだろうか。裁判も待っているし、次の就職先のことも考えなくちゃならない。家のローン、子育てに関する費用。今後の問題が山積している。
「そうだ、絹代とも相談して決めないとな」
突然のことでもあったので、昨日は妻も動揺してあんな態度を取ったに違いない。だが、話し合えばきっとわかってくれると思うし、困ったときはお互い助け合うのが夫婦のはず。そんな風に考えて、私はドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
玄関で出迎える絹代は、昨日と違って暖かい。やはり、昨日はショックが大きかっただけだ。今日のこの様子なら、今後のことも一緒に考えてくれるに違いない。そう考えた私に待っていたのは、容赦のない鉄槌だった。
「あなた、これ。記入しといてくれる?」
夕飯を終えた後、絹代がテーブルの上に差し出した一枚の書類。緑色の文字や枠線で作られたその書類には、左上に「離婚届」という文字が大きく記されていた。しかも、既に妻の分は記入がし終えてある。
その書類を見た瞬間、総身からものすごい勢いで力が抜けていった。