沼
11:沼と共に
タケオが去り、田中さんが去り、私は再び一人になった。
しかし、状況は以前とは全く違う。私は自分の意思で一人になり、自分の望むことをするためにこの小屋に残った。そういった行動に、後悔がないかと言えば嘘になる。できることなら田中さんと共にもっと仕事を続けていたかった。息子のように思っているタケオの今後を見守っていきたかった。そして、タケオに嘘をつくことになってしまうことを、避けたかった。
それでもこの孤独な道を選んだのは、一重に私自身が強くこうしたいと願ったからである。それ以上でもそれ以下でもない。だが私が、本当に心の奥底から行動を起こしたのは、情けないことに人生で二度目なのだ。
私は基本的に誰かの言いなりで生きてきた。母親に言われて勉強し、両親に言われるがままに受験した。就活もなんとなく受けて内定をもらい、いつのまにか絹代に言い寄られて一緒になった。そして会社の指示通り仕事をし、さほど多くもない給与を稼いだ。以降は記してきた通り、痴漢を「したこと」にされ、会社をクビになり、妻と離婚して香矢に会えない身の上となった。私の人生、ここまで全く自分の意思で行動したことはなかったのだ。
私が最初に起こした行動。それはあの沼で自殺をすることだった。赤ん坊がハイハイするような要領で、不器用に起こした私の最初の行動は、沼と田中さんとによってあえなく阻止された。
その後も田中さんに勧められ、3カ月程度の腰掛のつもりでこの森で働くことになる。タケオも私の意思とは関係なく、押しかけるようにあの小屋に住み着いた。
結局私は死を望んだこと以外、何も自分の意思で動いていないのだ。何が、田中さんと同じくらい仕事ができるようになっただ? 言われたことをやっていただけじゃないか! 何が、タケオの将来を心配しただ? 自分のことすら他人に決めてもらっているような身の上で!
がらんと、急に広くなったように思えた小屋を見回す。結局、二人ともここ以外に居場所があったのだ。田中さんは、ここ以外でも仕事をしていけるし、タケオは居場所を作るための時間がまだまだある。それにひきかえ、私には何があるだろうか。あの二人にはない、一度死のうとして全てをリセットした自分に残っているもの……。
答えを探しぬいた結果、浮かんできたのは沼の景色だった。あの沼。自分にはあの沼がある。一度目の死を救ってくれたあの沼が。
私は沼に寄り添い、沼と最期の時を過ごそうと思った。悲しいが私に沼を救う力はない。この土地を買い戻して、ダム建設反対運動を展開することは到底無理な相談だ。ならば私にできることはこの沼を看取ること、それだけだ。そうすることを私は望んで、この小屋に残ったのである。この行動に、意味があるのかはわからない。だが、意味が問題なのではない。重ねて言うが、私がこうしたかった、人生2度目の決断を自分の意思で選択した、それこそが重要なのだ。
だが、沼に寄り添うと言っても、私はすでに契約を切られている。小屋の電気、水などはもう使えない。しかし、それでも構わない。沼に残された日々はあと2週間ほど。人に会うこともないのなら、その間風呂になど入らなくとも良い。食料もどうにか野草や獣を捕まえることで調達できるだろう。そもそも、もう肉体労働はしないのだ。食料もそれほど必要とはしないだろう。
こうして、命数が尽きかけた沼と向かい合う日々が、幕を開けた。
最初のうちは、特に何も起こらなかった。沼を眺めるだけの一日。朝起きて、一日中沼のほとりで沼を眺め、暗くなればそのまま眠る。長い間肉体労働をしてきた身にとってみれば、野宿ですら退屈極まりない日々だった。
5日後、沼に仕掛けておいた網をすべて取り払った。別に5日経ってから行ったことに意味はなく、仕掛けていたのを忘れていただけだった。網には魚が数匹かかっていたが、全部沼に帰してやった。水槽は田中さんが持っていったので、そうするしかなかったのだ。
魚を放しながらぼんやりと考える。この行動に意味はあるのだろうか。数日後、この沼という世界は大洪水に襲われる。同じ水の中とは言え、彼らは生き残れるのだろうか。仮に生き残ったとして、大海と井の中の違いをこの魚たちは理解し得るのだろうか。沼に魚を戻し終え、再び沼のほとりに座り込んだ。
10日辺りから、急に辺りが騒がしくなった。といっても工事業者や富豪が何かをしてきたわけではない。鳥やタヌキと言った森の動物たちが、一斉にこの場から逃げ出し始めたのだ。
奇声を上げながら去っていく彼らを見ても、特に何の感興もわかなかった。ただ、危機をちゃんと察知できる動物の本能に、畏敬の念を抱く。そんな未曽有の危機を察知しても、時として留まることをする人間は、生物界の優等生なのだろうか、劣等生なのだろうか。沼を眺めながら、答えの出ない問いにつらつら思いを馳せる日々。この日々も後数日。その間に、私は私なりの答えを見つけることができるのだろうか。
12日目、相変わらずけたたましい声で去っていく動物たちを尻目に、私は過去のことを思い返していた。あの痴漢で捕まった時、自分はやっていないと徹底抗戦していたらどうなっていただろうか。今、客観的な立場で考えたとしても、恐らく勝ち目はなかったと思う。あの手の裁判は、女性の証言に非常に重きが置かれるということは私も聞き及んでいるし、触ってしまったことは確かなのだから。なら会社をクビになり、妻と別れて、娘と会えなくなって、ここにいるのは必然だったのだろうか。なんとなく、それも違うように思える。きっとあの場所で、たとえ裁判で負けていたとしても、その後何も変わらずここにいたとしても、あのとき自分の意思で行動したことに何らかの意味を見出したような気がする。今更こんなことを思うのは、もう遅すぎる気もするが。
最終日。あと一日の命となっても、何も変わらない水面を湛えている沼のほとりに腰を下ろす。もう動物たちの奇声も聞こえない。ここにいるのは沼と私、そして木々だけだ。時々そよ風が吹いて水面にさざなみを作る。所詮、人生などこの水面のさざなみのようなものだとでも言いたいのだろうか。私に待ち受けていたのは、そのような無情な結論だったのだろうか。まあ、どんな答えが待っていようと、私はここを立ち去る気はない。沼の最期を見届けることしか考えていないだから。
ほとりに座り続けて夜になる。最後の晩、私は寝ずに沼と向き合い続けることにする。木々の隙間から月光が差し込み、水面にも月のかけらが映りこむ。それらによって沼の周囲は明るく照らし出される。
私は、その光景を心底美しいと思った。一瞬、限界状況が見せる幻覚ではないかと思ったほどに。この美しい風景を見るためだけでも、私の人生は価値があったのかもしれない。生物は別の生を生きることはできない。この終着の景色を見ることができるのも、私一人だけなのだ。だからこそ、生はどんなものでも一意だからこそ、意味があるということなんだろう。
浅はかな私のたゆたう思考がどうにかまとまりを告げても、沼は何も言うことはなかった。ただただそこにたたずみ、月光を朧げに映し出しているだけだった。