小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

Heads up

INDEX|2ページ/5ページ|

次のページ前のページ
 

 家の方向を見ると、健也が同世代の男数人と車高を下げた古いレクサスに乗り込み、駐車場から出て行くのが見えた。こちらからは見えないが、おそらくベランダでは泉美が煙草を吸っている。二人とも自分の家なのに、部屋の中に寄り付かない。少し前に、二〇二号室は1Kだと戸川が言っていた。それが意味するところは、はるかが先に察したようだったが、実際、お互いが相手と同じ空気を吸うのを拒否しているようにも見える。

 部屋がひとつしかない。それは、二人の人間が同じ空気を吸うには地獄の環境だった。お互い様だが、この間取りでは相手の姿をどこかに追いやることができない。あるとすれば、押し入れが唯一の空間で、引っ越してきたばかりだということもあって、私物は少なかった。男が仕事に行くと、部屋に残された女は押し入れのふすまを開けて、空っぽの薄暗い空間を眺めていることが多かった。昼は部屋の延長のようだが、夜になれば真っ暗になってしまう。
 いつやればいいだろう。方法はすでに、頭の中にある。押し入れの中に体を縮めながら入ると、女は首を曲げたまま、できるだけ楽な姿勢を取った。部屋の天井は平らだが、外から見れば屋根の形は三角だから、屋根裏がある。小さな点検口のような開口部があって、そこから入ることができることも知っていた。そして、男はよく行先も告げずにふらりと出て行き、夜中まで帰ってこないこともあった。仮に殺したとして、私物を屋根裏に置いておけば、誰かが様子を見に来ても、ふらりと出て行ったように見えるだろうか。
 女はそこまで考えて、交際当初とは打って変わって粗暴な振る舞いを見せるようになった男が、いつそうなったのかを思い出そうとした。そして、『殺す』という考えがいつ自分に憑りついて、それが最善の解決策だということを確信し始めたのかということも。結局、二つとも同じ答えが当てはまった。逃げられないのだ。自分には身寄りはないが、男にはある。親戚の数も多く、町を歩けば誰かに出くわし、会釈から世間話が始まる。町全体が、大きなガラスの入れ物のようだ。
     
 帰り道、ハイツ大正の周りを掃除している戸川と目が合い、充が笑顔で会釈をした。はるかが『こんにちは』と言うのと同時に亜衣が両手を振り、三者三様の挨拶すべてに応えるように、戸川は人懐っこい笑顔で箒を持つ手を止めた。
「こんにちは、散歩ですか?」
 町田家が明るく晴れた空の一部であるように、戸川は目を細めながら言った。はるかがカメラを少し高く持つと反対に向けて、短い時間に撮った写真を見せた。戸川は目を丸くして、言った。
「いつも思うんですけど。自分の目で見るより、こっちのほうが本当に綺麗ですね」
 はるかはぺこりと頭を下げ、『ありがとうございます』と言った。充は、その横顔を盗み見た。褒められたときは素直に笑う。謙遜に言葉を費やしたり、否定したりはしない。それは結婚生活が始まってからも失われることがなく、充はその表情をできるだけ多く記憶にとどめるよう意識していた。戸川は、充とはるかの服の裾を掴んでぶらぶらと振っている亜衣の前に屈みこむと、言った。
「亜衣ちゃん、新しいおうちには慣れましたか?」
「はい、楽しいです」
 亜衣が劇のセリフのようにはっきりと言い、戸川が両親もひっくるめて褒めるように笑顔を見せたとき、充が言った。
「押し入れを怖がるんですよね」
「薄暗いからね」
 はるかが、話題をすぐに打ち切りたいように早口で言ったが、亜衣は父親がようやく悩みを伝えてくれたことに感謝するように、服の裾を掴む手に力を込めた。戸川は弁解するように眉を曲げた。
「押し入れねえ、元々壁が薄くて、お隣さんの声も押し入れの中だと丸聞こえになるんですよ」
 充は、初めての苦情めいた言葉に対応する戸川に心を痛めながらも、『素敵なお隣さん
』である二〇二号室の高知夫妻のことを頭に思い浮かべた。
「亜衣、押し入れの中で怖い声とか聞いたのかな? 例えば、隣の人とか」
 充が言うと、亜衣は首を強く横に振った。
「ほとけ様が、ここには入ったらダメって」
 亜衣のひと言で会話がすとんと終わり、充とはるかの中では子供の言う事として片付けられた。戸川はまだ困ったような表情を浮かべていたが、やがていつもの愛想いい笑顔に戻って、言った。
「入らない方がいいのかも。もっとお姉ちゃんになったら、頭をごつんってしちゃうかもしれないからね」
 家に戻り、充とはるかは昼食の準備を始めながら、また絵を描き始めた亜衣の後姿を同時に振り返った。前に向き直った充が、小声で言った。
「ずいぶん、具体的だったな」
「そうね……、ほとけ様って何だろ」
 はるかは、亜衣の描く絵を手放しで褒める。充も同じで、子供だから自由な想像力のままに色々な事を経験させるのが一番だと思って、亜衣の五年間の歩みを見守ってきた。友達がいないわけではないし、道路を挟んだ向かいのマンションに住む斎藤一家とは、親子供含めて全員が友達同士だ。クレヨンを貸し借りしたり、協調性もあるし、よく気が付く方だと思う。ただ、斎藤一家の娘である舞奈ちゃんは、亜衣が描く絵の色を見て、『全然言うこときかなーい』と言いながら笑った。亜衣が今までに描いた絵は、普通ならこの色を塗ると思われるところに、全く違う色が塗られている。例えば、今日の朝誕生した紫色の顔をしたカバもそうだ。
「はるか、子供の頃、そういうとこあった?」
「ないよ。ほんとに量産型の子供だったんだから」
 その言い方には、いつもの冗談めいた響きがなく、充は思った。はるかは自分よりも少し真剣に、亜衣の頭の中を心配している。
      
 月曜日の夕方、在宅勤務をしているはるかからは、こまめに連絡が入る。今日は泣き言が多く、ついに画面越しの課長から、明日出社するよう指示が来たという内容だった。
『ずっと画面越しでよかったのになあ』
 どう返信しようか考えながら、充は駅のホームから流れ出て、家への方向を歩き始めた。国道を走る車はまばらだが慌ただしく、その先にハザードを焚いて停まっている積載車が目に留まった。派手な赤色で、積み込まれた車がゆっくり後退してくるのが見える。深い紫色のクラウンで、改造されていた。運転席から降りた男は積載車と同じ色の赤い作業服を着ていて、帽子を脱ぐと客らしき男に頭を下げた。その隣でスーツ姿の営業らしき男が客に一礼し、客と握手を交わした。その営業が高知夫妻の夫であることに気づいた充は、電柱に半分隠れるようにしながら、所作を観察した。改造車のディーラ―に勤めているらしい。休みの日に洗車をしていることも多いし、車が好きなのだろう。客と積載車のドライバーと話す素振りを見ている限り、見た目の印象ほど悪い人間には見えない。積載車が引き上げて国道に合流し、高知がもう一度客と握手をして、紫色のクラウンが走り去った。充が素知らぬ振りで家へ続く路地に足を踏み出したとき、声がかかった。
「あっ、こんばんは。町田さんですよね」
 仕事のスイッチが切り替わっていないように、高知はぺこりと頭を下げると、充の方まで歩いてきて言った。
「どうもっす、ちょーど近所のお客さんで。僕もこれから帰るとこっす」
作品名:Heads up 作家名:オオサカタロウ