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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Heads up

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 部屋の隅に居座る、ふわふわした灰色の何か。女が『塵』だと言い、男はそれを『埃』だと訂正した。共同生活はずっとこの調子で、出だしの言葉が一致することは一度としてなかった。二〇二号室に住んでいるが、なんとなく語呂がいいと感じた女とは逆に、男は偶数を嫌がった。
 女は時折、昔のことを思い出そうとしたが、自分にも相手にも、結婚を境に変化した要素はなかった。捉え方が変わったということを理解していた。例え『埃』の方が灰色の塊を正確に表していたとしても、今はそれに感心することもなければ、自分の頭の中を訂正する気にもなれない。
 交際期間が終わって当然のように夫婦になった後は、妻と夫の関係であるという意識が先に生まれてしまい、いつしかお互いのことを名前で呼ばなくなった。声を出すとしたら、それは部屋に呼びかけているだけだ。それが空気を漂って相手の耳に入り、返事になって帰ってくるときもあれば、そうでもないときもある。タイミングが悪ければ、これは常に夫から妻への一方通行だが、物が飛んでくることも。
 妻として。女はよくその出だしを起点に、夫が外で仕事をしている間の平和な時間を活用して、考えていた。離婚すれば終わりだろうか? 確かにこの関係は終わる。しかし。あの男は他の女を、同じ目に遭わせる。
 だからいつか、この手で殺さなければならない。
      
 町田家は現実と妄想のパートに分かれていて、現実は充とはるかの二人が担当、妄想は五歳の娘である亜衣が担当している。保育園の先生には『想像力が豊か』と言われたが、それが方便でないことを確信するまでには、もう何年か待つ必要がありそうだった。充とはるかはよく『誰に似たんだろうね』と言い合って、どちらから受け継いだ気質か探り合っていたが、手に余ったことは一度もないとお互いの両親が即答するぐらいに、二人とも手のかからない子供だった。だから、ペットショップのインコが『連れて帰って』と自分だけにしか聞こえない声で囁いたり、そういうのは亜衣の専売特許だ。とにかく亜衣の目には、ファミリー向けの間取りを持つ二〇一号室がファンタジーの舞台で、父親の背中は『砂漠』、母親がガスコンロで軽々と扱う鍋やフライパンは『魔法』、夜中にぐるぐる回るらしい天井は『宇宙』だと言う。
 そして、押し入れの中には『悪魔の手下』。
 充はそれを聞いたとき、随分物騒な名前をつけたものだと思ったが、はるか曰く、亜衣は押し入れの中を見ることすら怖がり、出せなくなると言って、自分のぬいぐるみをそこへ仕舞うことを許さない。手下だから、悪魔本人ではないのだろうが、怖い存在であることに変わりはない。不思議なのは、そんな言葉を拾うような映画やドラマを見せた記憶がないということ。
 三人が半年前から住んでいるのは、ひっそりと静かな住宅街に建つ『ハイツ大正』。コンクリートとはいえかなり古風な門構えで、二階建てで八戸しかない長方形の建物の周りを外階段がジグザグに縫う形は、平成を飛ばして昭和の面影すら残している。そのデザインを敢えて選んだのは、充だった。家賃は相場より多少は安めだが、駅が近いこともあって、そこまではっきりと下げられているわけではない。ただ、部屋が思ったより綺麗で、テナントが入っていないことと、向かいが個人営業の薬局で、若者のたまり場には選ばれないだろうということが、決め手になった。背中を押した要素はもうひとつあった。それは、ハイツ大正の大家。戸川加代子という名前で、五十代の女性。彼女は一〇一号室に住んでいる。不動産屋と訪れたときに、その大らかな笑顔と一歩引いたような落ち着いた態度に、静かに子育てができると期待が膨らんだ。入居して分かったことだが、戸川はかなり生真面目な性格だった。建物の古い外観を守るように掃除を丁寧にしている。だからハイツ大正には落ち葉どころか、埃ひとつ落ちていない。
 完璧な環境だったが、入居までの二か月間に隣人が入れ替わる可能性があるということについては、考えていなかった。引っ越し業者と訪れたとき、二〇二号室には新しい隣人が入居していた。高知夫妻。夫の名前は健也で、二十三歳。バンドマンとバーテンダーとホストの悪いところだけを遺伝子に混ぜて、混ぜたことを忘れて小中高と蓋を開けずに放置し、二十歳を超えた頃にその負の才能を開花させたような見た目。それを体現したような目つきは、常に妻の泉美を向いている。二十歳、スポンジを細身の女性の形に切りぬいたような、中身の無さ。はるかは一度スーパーで一緒になったが、洗剤と割り箸の束という、どういう生活サイクルなのか全く読み取れない買い物をしていたという。
 それにしても、隣の部屋では言い争いが絶えない。泉美は、肺活量が加湿器の蒸気ぐらいしかないように見えて、話し声の比率は健也とほとんど変わらない。時折、物が飛んでぶつかる音が鳴るが、それはおそらく、夫から妻に対してだろう。逆は考えづらい。とりあえず、友達を連れ込んで騒ぐようなタイプではないのが救い。
 充は、はるかと一緒に塗り絵をしている亜衣の背中を見ながら、ソファの長さを全て使い切って伸びをした。土曜日の午前中は現実パートが鳴りを潜めるが、亜衣の妄想を補うために、塗り絵だけでなく様々な『活動』を用意している。
「塗れたかな?」
 充が真横に座ると、はるかが苦笑いしながら、亜衣よりも先に顔を上げた。
「見て、顔色がすごいことになってる」
 よくある動物のキャラクターものでモチーフにされたのは、おそらくカバ。本来は明るい黄緑色だったはずだが、その顏は紫色に塗られている。
「二日酔いだな」
「即入院コースだよ」
 はるかが笑った。充は、二日酔いのカバの隣にいる犬の顔を見た。そちらも橙色ではなく、水色だ。はるかが面白がるように、犬の顔をちらりと見て言った。
「パパ、こっちは?」
「低体温症かな」
 充が言ったとき、亜衣が自分の名前を紙の隅へひらがなで書いて、『まちだあい』カラーに塗られた絵が完成した。
「できましたー」
 亜衣はそう言って用紙を持ち上げ、乾かすようにひらひらを動かした。その紙の動きに合わせて充とはるかが手をひらひらさせると、満足したように亜衣は二枚目に取り掛かった。
「息抜きはいいの?」
 はるかの息抜きは、主に写真撮影。風景を縦に横に、自由自在に切り抜く。その芸術性に若干のスパイスが加わって、亜衣の独特な色彩感覚になっているのではないかと、充は常々思っていた。はるかはテーブルからそうっと体を離すと、充の方を向いた。
「見ててくれる? ちょっと、ぷらっとしてこようかな」
「任せて」
 充が言い、はるかが静かに立ち上がったとき、亜衣が二人を見上げて、言った。
「わたしも行く」
 三人で公園の周りを歩き、時折はるかが一眼のシャッターを切る。これはこれで、息抜きだ。充はすっかり枯れて地面と同じ色になった花壇を眺めながら、言った。
「春が待ち遠しいね」
作品名:Heads up 作家名:オオサカタロウ