炎恨
「ま、待て、お清、お前の暮らし向きの面倒は見る、悪いようにはせん」
「そのようなことは望んでおらぬ」
「仕方がなかったのだ、誰かを下手人に仕立てねばこの家の跡取りが……」
「そのようなことは知ったことではない……願わくば吉田も息子も道連れにして焼き殺してくれる」
「ま、待て!」
埃女は蛇のようになった身体の尻尾を使って自分もろとも山本の身体を夜具で器用に包み込む。
「与助の無念、与助の苦しみ……味わうが良い」
ボッ。
「やめろ、やめてく……うわぁぁぁぁっ!」
埃女が火に包まれると、たちまち夜具が燃え上がり、身動きの取れない山本はさながら火あぶりのように生きながら焼かれて行く……。
「火事だ!」
「早く消せ!」
「火消は呼んだのか!? 早くしろ!」
離れが燃え上がると吉田の屋敷は上へ下への大騒ぎになる、すると、燃え上がっている離れから幾筋もの火がオロチの首のように炎の牙を剥いて屋敷へと向かって伸びて行く。
「いかん! 吉田様を早く助け出せ、奥方も、坊っちゃんもだ!」
離れに集まっていた者どもが屋敷に向かう、だが、火の速度には敵わない。
「……火?……いかん、火事だ、誰か! 誰かおらぬか!」
騒ぎに目を覚ました吉田だが、既に障子や襖に火がついている。
「いかん!」
外へ走り出そうとするが、何かに脚を取られた、見れば一筋の火が蛇のように脚に絡みついている。
「な、なんだ、これは、わぁっ!」
寝間着に火が付き、慌てて脱ごうとするが、火の蛇に巻き付かれて身体の自由を奪われて行く。
「誰か……」
助けを呼ぶ声は燃え盛る炎にかき消されて行った、そして勢いを増した火の蛇は次なる獲物を求めて……。
翌朝のこと。
「お清ちゃん……お清ちゃん……少しは食べないと体に毒だよ……起きてるかい?……」
隣のおかみさんがお清の長屋の戸を開けると、菊の花のような匂いが部屋いっぱいに。
「お清ちゃん! 誰か! 誰か来ておくれ! お清ちゃんが……」
このところいつもそうしていたように、お清は壁に背を預けて膝を抱えた格好のままこと切れていた……ただ、このところふさぎ込んで土気色にくすんでいたその顔はむしろ晴れ晴れとして、夫婦揃って幸せに暮らしていた頃のようにこぼれるような微笑みを浮かべていた……。
「そうかい……お清さんは最後の力を振り絞ったんだね……」
平八の報告を聞いた馬曲は少し肩を落とした。
「あたしは良いことをしたのかね……それともお清さんの命を削ってしまったんだろうか……」
「お気持ちは察しやすが、先生のせいじゃありませんや……おかみさん連中の話だと、どのみち弱って死ぬのは目に見えていたそうですからね、お清は晴れ晴れとした顔で死んでいたそうですよ……先生は本懐を遂げるお手伝いをなさっただけで……お清もあの世で礼を言っていると思いやすよ」
「だと良いんだが……これでもう埃女は現れないだろうね」
「へぇ、心配していた大火にもなりませんでしたし……先生はこの話をお書きになるんで?」
「いや……どうもそんな気にはなれないね、確かに山本様のような同心や吉田様のような与力もいるけどね、中村様のように町民のためにしっかりと働いてくださっている同心もいるんだ、その中村様に使える親分のような岡っ引きもいることだしね、同心を悪者に仕立てた物は書かないよ、それに、お清さんのような貞女が悪霊になる場面も書きたくはないしね」
「そうですか……ありがとうございます」
「吉田様の息子はどうなった?」
「若いんで命だけは取り止めやしたが、恐ろしさのあまり気が触れちまったようでして、膝を抱えてぶるぶる震えていたかと思うと、狂ったように暴れ出す始末でして……座敷牢に閉じ込めておくほかないでしょうね」
「悪い夢にうなされるだけの生涯か……死んでしまうよりもある意味辛いかも知れないね」
「そうですな……」
二人の間にはしばらく重い沈黙が流れた……。
そして、その空気を振り払うように平八が務めて明るく切り出した。
「そうそう、風車の一味がまた現れたそうで」
「ほう! それは耳寄りだね、詳しく話を聞かせてくれると嬉しいんだが」
「ようがすよ、でもその前に……」
「その前に、何だい?」
「この間頂きそこねた良い酒と旨い肴と言うやつを頂けると嬉しいんですがね」
「おお、もちろんだとも、今夜はとことん飲みたい気分だよ、付き合ってくれるだろう?」
「願ったりでさぁ」
「どれだけ遅くなってももう埃女に出くわす心配はないしね」
埃女はそれっきりぱったりと姿を現さなくなった。
だが、人の心に闇がある限り、江戸の街の闇にはまだまだ怪異が潜んでいる。
馬曲も平八も、それは嫌と言うほど知っているのだった……。