短編集97(過去作品)
バチが当たる
バチが当たる
人には言えない忌まわしい過去、それを誰が非難できよう。仁科美佐子は、病院のベッドで毎日何も考えず、表を見ていた。そこには、桜の木があったが、美佐子にとって、桜の木を見つめることほど、感慨深いことはなかった。
――バチが当たったのかも知れないな――
交通事故に遭った瞬間に感じたことだった。何に対してのバチなのか、次の瞬間には否定していた。
――私にバチなんて当たるはずはないわ――
足の骨が折れたということで入院となったが、
「これくらいで済んでよかったよ。一歩間違えれば即死だったんだからね」
入院してから一週間が経った頃に医者から言われた。医者とすれば一週間も経てば美佐子の心は落ち着いて、
「今だから言えるけど」
というくらいの気持ちだったに違いない。
美佐子の気持ちは落ち着いていた。最初から動揺もなかったし、もしまわりが美佐子に動揺を感じていたとしても、それは美佐子の意志ではない。無意識の中に女の子らしい行動を取らなければならないという潜在意識が働くのだ。そうでもなければ、美佐子という女性は、女性として、いや、人間としての感情を永遠に表に出せない人間になっていたかも知れない。そのことは、美佐子だけが自覚していることだった。
美佐子には趣味があった。大学時代に夢中になった絵画である。高校の頃にできた彼氏と一緒に絵を見に行った時に感動したのが最初だったのだが、その彼氏とは、数ヶ月付き合っただけだった。それも最後にデートしたのが美術館に絵画を見に行った時で、その後すぐに別れている。
美佐子から別れを切り出したようなのだが、どうも彼の方も待っていたふしがある。お互いに後腐れなく別れられたのはよかったのだが、女友達からは、
「どうして別れたりしたの? あんなにいい人は二度と現れないわよ」
と、言われたものだ。
確かに彼はスポーツ万能で、学校の成績もトップクラス、学校内の女子から見れば憧れの的だった。
「どうして彼が、美佐子なんかと」
これが学校内の女性が一致して感じていることだったに違いない。もし、美佐子が自分ではなく、他に自分のような女性と彼が付き合っていれば、同じようなことを感じたことだろう。だが、決してやっかみはしなかったはずである。
彼と知り合ったのは、まったくの偶然だった。図書室で調べ物をしていて遅くなり、学校を出たのが、いつもより少し遅かった。だが、普段立ち寄ることもなかった図書室だったので、うっかり忘れ物をしたのだった。急いで取りに帰ったが、そこでバッタリ部活を終えた彼に出くわしたのだ。
学校の廊下から差し込む西日が二人の影を壁に映し出していた。日差しが当たった顔は、恥ずかしさでいっぱいだったが、そんな表情をできる自分が不思議で仕方がなかった。
――私にまだ、恥じらいなどという気持ちが残っているなんて――
今までに一度も見せたことのない表情。初めて感じた自分に対しての「可愛い」という感情、それを男が見逃すはずがない。これこそ偶然と言わず、何というだろう。
美佐子はしばらく有頂天だった。
その日は一緒に帰ったが、大して詳しいことは何も話していなかった。それでも夕日に照らされて帰宅の途についた二人の間に流れる時間が、永遠に続いてほしいと感じていたことに間違いはない。
最初のデートの誘いはどちらからだっただろう。ハッキリと思い出せないが、積極的だったのは美佐子の方だった。その頃の美佐子は、自分ほど不幸のどん底にいる女はいないとまで思いつめていた。このまま何も考えないようにしながら、運命に逆らわずに生きていくしかないと考えていた。それを救ってくれたのが彼だったのだ。
――違うわ。自分で乗り越えようという気持ちになったからかも知れないわ――
自分のすべてを彼に委ねることに決めた時に感じたことだった。
趣味も何もなく、ただまわりから目立つことのない石ころのような存在、それが自分だと思っていた。それしかないと思っていた美佐子だった。そんな美佐子が見つけた気持ちを動かすことのできそうだと感じたのが彼の存在である。もし、彼に出会わずに、自分の気持ちを動かす何かがあるとすれば何になるか、考え始めたのも彼と付き合い始めてからである。彼と出会って、止まっていた時間が少しずつ動き始めたのだ。
彼はまわりの女性が噂している通りの素晴らしい男性だった。美佐子にあまり物事を考えさせないようにする気遣いは、心憎いほどで、
――癒しとはこういうことなのね――
と美佐子を感心させてくれた。それまでの灰汁をすべて取り除いてくれるのではないかと本気で考えたほどだった。
美佐子は学校では目立たない存在だった。元々男性に興味がなく、女性の友達も多い方ではない。女性の友達ができても、あまり長続きしない。美佐子の方から遠ざかることもあったが、友達の方から離れていくことの方が多かった。
女性は集団で群がることが多い。いくつかの集団がクラス内でできていたが、クラスの女の子の大半は、そのどれかに属していた。他のクラスにも同じような状況があり、そもそもそんな状況自体が、美佐子には馴染めなかった。
馴染めなかったというよりも許せなかったといった方が正解かも知れない。人から支配されるなどということは、美佐子のプライドが許さない。もちろん支配する方も許せないのだが、美佐子にはむしろ支配される人の方が嫌だった。自主性がなく、何を考えているか分からなく見えるからである。
――人それぞれに考えがあってしかるべき――
と思っている美佐子ならではの考え方である。
世の中には支配されることを嬉しがる人もいるようだ。
美佐子の母親がそうではないかと感じ始めたのは、美佐子が中学になってからだった。
父親は美佐子が中学に上がる寸前に亡くなった。その時の母親の複雑な表情、今でも忘れることができない。一番母親の背中が小さく見えた時がその時だった。だが、寂しそうな表情をしている傍ら、ホッとしていたのは間違いなかった。それまでに父親から受けていた仕打ちを考えればそれも仕方のないことだった。
美佐子にとっての父親は、優しい父親として今でも頭に残っている。小学生の頃はずっと父親が好きだった。母親よりも父親が好きで、どこかに出かける時は、必ず父についていったものだ。
パチンコ屋、競馬場、およそ小学生の女の子が行くところではない。だが、父親と一緒であれば別に気にならない。むしろ父親の背中を見ながら、ピッタリとくっついていればいいという安心感で、さらなる父親の逞しさを知るに至った。
――ギャンブルをする大人たちって、あまり品のいい人たちじゃない――
と思って最初は怖がっていた。しかし、皆気さくで、何と言っても、父親が家でも見せたことのないような楽しそうな顔を見ることが一番嬉しかったのだ。
「美佐子ちゃんって言うの。 可愛いね」
「うん」
と他のおじさんに話しかけられても、気さくに返事ができていた。そんな美佐子を見て父親も満足な顔をしていたが、その顔を見るのが美佐子は好きだった。
作品名:短編集97(過去作品) 作家名:森本晃次