静かな海のオデッセイ
知将は相変わらずの知将であった。けれども正気を失っては元も子もない。そんな状態では長く航海を続けられまいと舵を取ったのがあの三人なのだ。彼は詳しく教祖の言葉を聴きたがり、私もそれに答えようとして幾度となく紙の上にペンを走らせたが成果は得られなかった。卓上の蝋燭が溶けてゆく。
筆写を続けながら、何故彼は聴力を失ったかという疑問が舞い戻ってきた。熱した蝋を注ぎ込まれたといっても、蝋を取り除くことが出来れば鼓膜は再生するのではないか。戻らなかったのは耳を塞ぎ続けている彼だけであるという三人組の声を思い出して薄ら寒さに震える。彼等が彼の耳に蝋をして、のみならず狂い続けているというのはどうしてなのだろう。筆記の手が止まったのを怪訝に見上げた彼の、耳に残る跡を見ながらあなたはそれを取り除こうとは思わなかったのですかと慌ててしたためた。
「いいえ」
取ろうとは思いませんでしたし、これからも取ろうとは思わないでしょう、と彼は答えた。
「この耳の傷は彼によってもたらされたものですし、ましてや、あの歌を聴くために閉じた耳であるのに、あの歌無き今となってどうして耳を開くようがありましょうか」
あなたが嘘偽りをするような人間だとも思いませんし、この海の魔物については、幼い頃からよく知っているのですと言って彼は記事を眺めた。
「私達が船を漕ぎ出した、まさにあの港で私は生まれ育っています。海の荒れる日には、沖から吹く風に紛れて微かにその声が聞こえることもみな知っていることでした。その声を聞きますと、間に波濤があるのも忘れてふらふらと海へ引き込まれてしまう。だから海の声は聞くなとよく大人から諭されたものです」
ですが私は永らえましたと彼は言った。
「なんと言うことはない、ただ私が特別臆病なだけだったのです。声が聞こえて、そちらの方へ行きたいと思っても、間にある恐ろしくうねる海や岩礁を思い出して足がすくむ。そんな調子でしたから、私はついにその魔物の元へと漕ぎ出す勇気が起こりませんでしたが、あなたはそこに赴こうと言った」
最早目は私の方を見ず、もう一人の男の方を向いていた。破船の主は机の上に置かれた蝋燭の火をじっと覗き込んでは時折息を漏らすだけだ。
「あなたの計を聞いたとき、何とすばらしい策略かと内心称賛したものです。才知に富んだあなたであれば、あの魔性の歌を聴いて帰れば地上でもその楽を奏でることが可能でしょう。あとは船の漕ぎ手さえいれば良い。だから志願したのです。荒波をかき分けてかの海へ赴いたのです。あなたがそこで歌を聴ければ良い。私が耳を失おうとそれは変わりがない。──どうして彼は今も狂っているのでしょうか。魔獣も死んで、今は静かな海のはずです。どうして」
返す言葉は見つからなかった。壁を隔てて聞こえる潮騒は、ただ磯を削るばかりで心を狂わす韻律を伴ってなどいない。
答えがないことを知った彼の嘆きは甚だしかった。顔を覆い、人前を憚って押し殺すような声しかたてなかったが泣いていることは判った。ようやく顔を上げて、泣きはらした目を灯りの前にさらすとそれを拭いながらご迷惑をと小さく笑う頃にはかたわらの蝋はもうほとんどとけかけていた。
「彼の耳にはこのことは聞こえていますか?」
『聞こえてはいますが、答えることが出来ないのでしょう』
狂気のために、と書き加える。釈放後の生活のために取り寄せた所見には、精神面を除き異常は無かったはずだ。今まで一度も正気に返ったことは無いのでしょうかとまた彼が聞いた。少し考えてから頷いて答える。
「ならば今もあの歌を聴いているのですね」
『私には何も聞こえませんが』
涙がまだ残るのか、彼の目が光るのが見えた。
「その答えが頂けたのならば、十分です。──その歌がここに聞こえないということは」
火の絶えかけた蝋燭を変えるつもりか彼が卓上の燭台を取る。そうして身を乗り出すと、私の隣に座っていた、出所したばかりの、彼の教祖だった狂人の耳をめがけて火の付いた蝋をさしだした。勢いに火は消え、溶けきった蝋が耳殻に触れると水気を蒸気に変えて音をたてる。さしもの英雄ものけぞって悲鳴を上げたところに更に一撃、別の蝋を取って叩き付ける。両の耳が塞がれた。慌てて立ち上がった私は彼が──今やどちらが狂人か判らない。呼びかけても応えないなら彼も同じだ──静かな、耳の聞こえない、耳に火傷の跡がある、彼の仲間をして狂人と呼ばわしめた、そうだ最初から彼は狂っていると予告されていたのだ──仲間の内で最も最後に蝋を注がれ、今も耳へと注ぎ続けている彼が、彼を、彼に、
低い呻き声で我に返ると、水を求めに勝手へ走った。台所の棚に大きな水差しを見つけて冷たい水を注ぐ間、流しの前にもうけられた小窓から飽きもせず波が寄せては泡を飛ばすのが見えた。部屋に戻ると狂人どもは共に床の上ですすり泣いていた。
彼の人が狂うのであれば、と一人が言った。
「それは魔物の歌によって他なりません」
私達が彼に付き従う代わりにその歌を聞くのが彼の役目でしたから、と彼が静かに言った。
「今も彼が狂うなら、あの歌が彼の耳を捕らえて放さないのでしょう。それが日々の喧騒に紛れて彼の気を狂わせる。本来、美しい歌のはずなのです。こんなにも惨めな振る舞いをさせるものではない。陸に上がったのが間違いだった」
地上にあるつまらないことどもがそれを歪めたと彼が言った。水差しから水を注いでもう一人の方の傷を洗いながら、例えばそれは私が生業にしている司法がらみの煩瑣な手続きのことかと思った。あるいは、地上にいた頃の彼を知るものによる馬鹿騒ぎだろうか。私が仕事についた頃にはもう大分収まっていたものの、時折会見で引きずり出される彼には常にかつての栄光との落差を騒ぎ立てる連中がとりまいて離れなかった。もしかしたら静かな独房の中では正気に返るのかもしれなかったが、看守が独房の秘密を漏らすはずが無い。
波の音は繰り返し打ち付けるばかりですから、と先に蝋を注がれた男が言った。
「却って明瞭に聞こえるはずなのです。耳に染みついたそれを、あとは歌うだけなのに」
波の上にいた男は今は静かにうずくまっている。
眼光は澄んで静かだ。時折と宙を彷徨うものの、地上からそう遠くないところでゆらりと浮かぶ。底知れぬ海から彼の意識を乗せた泡が浮上するようだった。音は無い。無いように聞こえたのかもしれない。壁を隔てて聞こえていたはずの潮騒も遠のいて、打擲を免れた蝋芯が微かな音をたてて火の勢いを取り戻す音ほどしか聞こえなかった。陸の不平を言い募っていた男が口を噤む。
今しがた耳を失った男が立つと、唇で何かの形を結んだ。
「 、 」
やはり何も聞こえない。音をたてずに呟くのかもしれないと思ったが、海風を受けてトタン屋根が軋む音が聞こえていたから、やはりその歌だけが聞こえなかった。耳を塞がれた彼にもそれは聞こえないはずだ。聞こえるものは脳に刻まれた魔物の歌だけだ。唇が小さく震える。
作品名:静かな海のオデッセイ 作家名:坂鴨禾火