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静かな海のオデッセイ

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 その上を走る車は、凍った地面を滑らないように細心の注意を払っているらしく、随分近くなるまでその音に気付かなかった。車が止まる。タクシーだ。一人、男が降りてきた。なるほどこの男が、──と思いながら目礼を交わす。耳に無惨な火傷の跡があったが、手に持つ大きな包みが座席から引っ張り出されるのに気をとられて観察がおろそかになる。包みの中は囚人のための衣服だと知れた。耳の聞こえない彼に代わって、タクシーの運転手にまた戻ってくるから待つよう伝えると、彼と並んで橋を渡った。詰め所の人間に身元引受けであるとの旨を伝えて待つ。
「本当に感謝しています」
 外からの人間には特段見張りをつける必要も無いので去ってゆく警邏の背中を見ていた彼がぽつりと言って、少し声が大きすぎましたかと付け加えた。
「どうも加減が判らないので。喋れても、聞こえないので筆談なんです」
 口頭よりも書面によるやりとりが重視される仕事であるので筆談の労はさほど無かったが、意思疎通の手段が文字だけであるのは確かに面倒だなと思った。コートの隠しから紙と鉛筆を取り出そうとするのを柔らかく彼が制止する。そうして再び沈黙に沈んだ。今は待つことしか出来ない。
 けれども私の胸の内に去来していたのは、灰色の三人連れが最前私に警告したことだった。仕事柄、警告や脅しのようなものを受けることはあったが、耳が聞こえないことを理由に脅されたのは初めてだ。先程眺めそこなった彼の耳が真横にあるのを良いことに、時間をかけて観察する。元は白かっただろう皮膚は今も赤く焼けただれていて、あるいは茶色い色素が肌に染みこんでいた。奥の方には膏薬か何かががべったり塗りつけられているのが変形した蝋の様にも思えた。彼は私が眺めていることに気付いた様子だったが、何も言わずにただ待っている。
 支度に戸惑っているのかかの男はまだ来ない。
 不安そうにそれを待つ目の前の彼は、英雄の船出の出資者の一人に違いなかった。魔性の歌のために財はもとより、労も供したのである。それが歌はおろか歌を聞くための耳も失ってしまったのであるからいたたまれない。廊下で待ち始めてから十分が経つ頃、警邏から部屋に来るよう呼び出しがあった。彼を促して立つと指示された部屋まで連れて行く。暖かなその部屋に踏み入った途端、彼の手から包みが滑り落ちたのを私が拾い上げている内に、彼は蕩けたような表情の男の首にかじりついた。呆れたような看守の表情を他所に、こするように耳をその口元へ近づけていたが、何も聞こえないことを悟ると、予期していたこととはいえはじめ紅潮していた頬が一気に青ざめ、土気色に変わって絶叫する。
「ああ、あなたはそれを聴き帰ったというのに!」
 そこから先は嗚咽で聞こえなかった。代わりに二人を促して、警邏の詰める門を渡ると、待たせていたタクシーに二人を乗せると行き先を告げた。着いていった方がいいのだろうか。一人は相変わらず蕩けきった顔で時折何か呟いているようだったが意味のある言葉には一言も聞こえなかったし、もう一人は懸命に下を向いてすすり泣きを噛み殺していたから一切の文字を受け付けそうに無かった。私へ依頼があったのは引き渡しまでの書面のやりとりと立会だけだったが、腹を決めて助手席に滑り込むと改めて行き先を知らせた。あからさまに安心したような息を一つついた運転手が、来たときと同じく静かに車を走らせはじめた。
 彼の家があるのは海沿いの町の中でもとびきり外れの海にほど近い場所で、トタン作りの屋根の下には静かに波が押し寄せていた。私達を乗せてきたタクシーが街の中心部に向かって引き返してゆくのを見送っていると、この頃にはようやく気を持ち直したらしい彼が、せっかくいらしたのですからと家の中へ招いた。むろん件の教祖も一緒である。
 蝋燭の灯りが甘い香りを漂わせながら、あばら屋の中でゆれていた。手際よく茶の用意をしながら、停電することも多いのでと言い訳のように彼が呟く。ひょっとしたらたびたび電気が止められているのかもしれない。お世辞にも豊かな暮らしぶりだとは言えなかった。それも身元引受けの交渉が難航した要因だったが、声には出さずにカップに口をつける。案外上品な味と香りがわき上がっていた。
「香りが良いでしょう」
 集会ではよくこんな風にお茶を飲んでいたんです、と昔を語る言葉に先程の動揺は見られなかった。私の隣に座らされた元虜囚はというと、茶器に手を伸ばすこともせずに天井を見上げたままだ。蜜蝋といって、と彼が火をテーブルの上にたぐり寄せながら言う。
「手のひら程度の温度でも柔らかくなりますし、食べたり、皮膚に塗ったりしても害は少ない。しっかり溶かすなら火にかけた方が良いのですが、──私はそこでしこそこないました。他の方に耳に詰めて頂くよう頼んだのですが、皆様先に耳に蝋を詰めていらっしゃいましたから」
 彼は何と言っていますか、と私に聞いた。
「彼は知らなかったはずです。既に船の柱に縛り付けられておいででしたから。でも、それでも良かったんです──船を漕ぐのに、耳は必要ありませんから」
 今は何と言っていますか、と静かな笑顔のまま彼は言った。そうして少し考えてから、白紙の束を私の手元に勧めた。せめて彼へのねぎらいか、何か聞き取れればと思ってペンを取ったが、相変わらず教祖は気の向いたときに、意味のあるのか無いのか判らないことを二つ三つ呟く呟くばかりで遅々としてペンは進まなかった。食卓に置かれた燭台に黄色い蝋が溶けて落ちてゆく。耳栓をするなら指で蝋を溶かせは良かったのに、と思った。それを指示したのは教祖ではない。
 改めてペンを握り直すと何も、と書き込む。
 だがそれでも疑問は残った様で、不審げに首を傾げた彼を見て言葉を補う。
『何も彼の意図したことを聞き取ることが出来ません。口は動いていますが』
「本当に何も?」
 何も、と続けて書く前に彼はかつての英雄の顔を見たまま凍りついた。外界の音を聞くことを拒否したのだ、と私は思う。彼はいつまでも甘美な航海の中にいた。そこでは彼の教祖は偉大な英雄のままで、彼もまた同じ夢を見ていることを夢想していた。それが崩れはじめたのだ。
「そうしたら彼は、本当に狂ってしまったのですか? ──かの魔物は、私達を屠ることが出来ずに死んでしまったというのに?」
 そう言うと彼は机の隅に畳んであった新聞記事の切り抜きを出した。日付は数日前のものだ。海豹となっていますが確かにあの魔物です、と彼が言った。
「水族館にいる、あれとは似ても似つかぬ何かです。私達は確かにそれを見ました。私達の仲間で船を漕いでいた者が海豹だろうと侮って、耳栓を外した途端岩礁の中に飛び込んで、赤くなったしぶきと共に肉片が浮かび上がってくるのも確かに見ましたから」
「しかし、」
 ペンで書き付ける前に彼は無事でしたが、と彼が付け加えた。
「そのための縛めです。彼は事前にそれを知らされていたので、海へ転落することが無かったのです」
作品名:静かな海のオデッセイ 作家名:坂鴨禾火