静かな海のオデッセイ
静寂が彼の耳に訪れていた。かたわらの蝋を注いだ男の目が見開かれるのが見えた。わななきはやがて全身に伝わる。迷妄が地に落ち、風に消えて、さばらえた足が地を捕らえると狂人の姿は消え失せた。放浪の年月はいささかも彼を衰えさせておらず、むしろ星霜によって磨かれて、平静が肌の熱を奪っていた。指先が耳の蝋に触れて何が起こったのかを掌握すると、再びもう一人の耳を塞がれた男に向き合う。
数多いたはずの彼の信者は今や一人しか残っていなかった。あばら屋のかしこに置かれた黄色い蝋燭を見ながら、耳を塞ぐことで永らえてきたのだと私は思った。彼を信じてくる日もくる日も蝋を注ぎ続けたのだ。彼の朋輩の手によって注がれた蝋が耳の底で滞留していたとしても、取り除いて年月で癒やせば再び耳は音を拾うはずなのに、それを拒み続けたのはひとえに彼の狂信によるものだった。静寂が彼の正気を取り戻したように、静寂が彼を狂気に繋ぎ留めた。彼の唇が動く。さざ波のように水面を伝って蝋を注いだ男も応じて唇を動かしたが、首を振るとまた始めから同じ動きを繰り返す。幾度となくそれが続いた。相変わらず私の耳にそれは聞こえなかった。聞こえないのかもしれないし、あまりにも甘美で耳が聞くことを拒んでいるのかもしれない。
静寂の伝授に得心が行ったのか、口伝てを止めた師が弟子の耳に指を伸ばして差し入れた。逃れようと男が首をよじるものの、引かず、傷跡が痛むのか、信者の男は必死に悲鳴を噛み殺していたが、ついに耐えきれなくなって声が漏れ出る。まだ聞こえないはずのその耳に彼の教祖が何かをささやくと咽喉から悲鳴が爆発した。のけぞると同時に溶け出た蜜蝋が耳孔から外耳へ滴り落ちて、そのまま床へ引き倒される。
男の口からは未だ細い声が漏れていた。海から吹き込む潮風が、奇妙な抑揚を伴ってあばら屋の軒を揺らすように聞こえた。腕が一本、伸び上がって宙を掴んだが、か細い歌は未だ絶えない。何かが聞こえた。教祖は未だ口伝てを続けていた。ようやく身を起こした男の耳から蝋をかき出そうとしていた、彼の耳にはまだ蝋が貼り付いたままだ。先程宙を掴んだばかりの手が、今度は過たず耳殻を捕らえた。口元で相変わらず例の歌を繰り返しながら、爪を立てると彼は慎重にそれをはがしはじめる。外耳を覆う蜜蝋が肌を離れて、返して歌う声が彼の耳に入ると、確かめるように二度、口早に同じ節を繰り返す。彼もまた応えて同じ旋律を唇で紡ぐ。
突如音があふれた。
耐えかねてあばら屋を出ると寒さが一気に私の感覚を現実に引き戻した。蝋燭が点る家の中では今も海から来たものどもが歌っている。その韻律を思い出してめまいとともにどっといやな汗が噴き出した。全く正気の沙汰ではない。どうして聞こえなかったのだろうという問いには、必死に耳がそれを拒んでいたからだという答えが今になって返ってきていた。あの男が積み上げていた音の塊は最早旋律などは無く、応える彼の声もまたどうして人の喉からあの様が出るのか不思議なくらいのおぞましい声だ。潮風に当たりに海の方を覗き込むと、遙か下方で打ち寄せた荒波が磯を模したコンクリートブロックに当たって、波頭が磯の底で渦巻いていた。灰色の男達と、狂った教祖と狂信者を乗せた船もここからさほど遠くない場所に流れ着いていた。件の怪物の死骸が流れ着いたのもこの辺りだったのだろうか。あの男が屋の内で示した新聞記事は目にしたことがあるはずだった。海豹だろう──というのは記事のためにどこかから招聘された海洋学者の意見だったが、魔物に取り憑かれた男の目には例の怪物の姿に見えたらしい。
波消しブロックの底を眺めると何かがこちらを眺めていた。はじめは自分の姿かと思っていたが、顔を背けても眼窩は相変わらずこちらを見上げていた。漂着者であればおよそ生きていないはずだった。通報しようか躊躇いながら再び下を覗くと、虚ろに開いた眼窩の、その下に開いた細長い切れ目が潮に洗われながらはくはくと動いた。歌うようだと思うと同時におぞけが這い上がる。かたわらの粗末な家からは、今も哄笑の様に調子の外れた声が聞こえていた。その歌にあわせるように魔物が唇を動かす。
波消しブロックの底の顔は再び奔流に流されて姿を消したが、私はそこに留まり続けた。陸の底に穴があいたように思えた。ずっと盤石だと思っていた大地は、実は海に浮かんでいただけなのだ。あまりに大きく、浮かんでいるということすら気が付かないほど静かだったが、板子一枚下は地獄に変わりがない。その底に小さな穴をあけて、彼等は海の底を覗き込んでしまったのだ。先ほど見た魔物がその証左だった。冥府からよみがえったのか、あるいは数多いるそれが仲間の声だと思って岸に寄ったのかは定かではない。どちらにせよ結末は同じだ。やがて辺りは一面の水になる。船の中にあふれるがごとく歌が満ち満ちて、穴の開いた船は沈む。
ならばボートか浮きの代わりを探さねばならない、とようやく重い足を動かして港へ向かった。今朝方私に警告をしに来た灰色の男達は、もう自分達のための救命艇に乗りこんだ頃だろう。港の端に小舟が係留されているのを見つけて艫綱を解く。
沖へと船を操りながら陸を眺めると、海鳥だけが飛んでいた。日はまだのぼりかけであったが町中に人の気配は感じられず、みな灰色の町並みの底で息を潜めているようだった。港を通り過ぎていよいよ沖が近づく。
風に乗ってあの歌が聞こえて、見上げると波消しブロックの上にあばら屋が見えた。船のエンジンが静かに音を止める。推力を失った小舟は波にゆれるばかりで一向に進もうとしない。操船を諦めて、私は陸の底に穴があく音を小舟の柵にもたれてずっと聞いていた。
作品名:静かな海のオデッセイ 作家名:坂鴨禾火