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静かな海のオデッセイ

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 雪こそ降っていないものの、拘置所前の地面は冷たさを吸い込んで固められたように静かだった。約束の時間よりも大分早くに辿り着いてしまった私は、かじかむ手を擦りながら暖を取れる場所を探したが何も見当たらなかった。囚人の逃亡を防ぐための空堀にはいくつか橋が架かっていて、その一つが面会場所へと繋がっている。そこから手前は住宅街だ。周囲を見回すと、同じように面会時間を待っていたらしい灰色のコートを着込んだ三人組の男がこちらの視線を避けるように縮こまる。最寄りの駅は遠く、タクシーも出払っていることもあるから余裕を持って出たのが却って徒になったなと思いながら手を擦るのをやめてポケットの中にしまい込んでいると先程の三人連れの一人が声をかけてきた。
「待ち合わせですか」
 面会の前に初顔合わせとなる身元引受人とここで落ち合う約束をしていたが、この男がその相手なのだろうか。話しかけてきたきり相手が沈黙しているのを不審に思いながら、身元引受人の男は耳が不自由だったことを思い出した。
「失礼ですがどなたですかな」
 あいにく手話の心得は無い。
 塀の中で出所を待っているのはかつて投資で財を成した男だったが、数年前に第一線を退いて静かな生活をしていたはずだ。もっともその後の騒動で再び世間を賑わせていたから、それを引きずる野次馬かもしれない。話しかけてきた灰色の服の男の手に機材が握られていないかを念のため確認をする。記者ではありませんよと別の男が答えた。待ち合わせ相手が複数で来るという話は無かった。少なくとも私の問いかけに答えた男は、耳が聞こえるようだった。いよいよ警戒を露わに向き合う。
 あの男をお待ちなのでしょう、はじめの男が言った。
「どうして私達がそれを知っているのかという疑問もきっとお持ちでしょう、──その疑問はもっともです。かつては名声を馳せたあの英雄も、世間から離れ、長い放浪の果てに正気を失ってしまったから。世間の誰からも見放されてしまったから」
 だから盛大な出迎えも無ければ引き取り手もほぼいない。三人を改めて見ると、確かに見覚えがあった。灰色のコートに沈んだ肌はかつてはもっと浅黒く、座礁した船の横穴を破っていち早く助けを求めたのはこの三人だったはずだ。過日の報道で幾度となくそれを目にしていた。彼等は船の主がかつて投資で財を成したあの英雄であること、数年前よりあやしげな宗を起こして彼がその教祖の座に納まっていたこと、そして彼等に対する詐欺と暴行を、異様な船の周囲に集まった人間に暴かしめた。千里を見通す才知と狡猾を身につけた英雄が、一転、隠者めいた面持ちで船を出すための出資を募る胡乱な人間へ変貌したのは女の影が噂されたが、当の魔女の行方は知れない。ただ彼女が与えた託宣はろくでもないものであった──某県某所の沖合には魔物の住まう岩礁があり、その歌声は甘美だが、沖で聞いて戻った船は僅かである。その害を避けるための知恵を彼は授けられた。だからその援助を、と物陰から現れて人々の耳へささやく物乞いになり果てたときから彼の狂気は始まっていたように思うのだが、世間がそれを知るのは遅すぎた。噂が広まる前に船出に十分な資金を蓄えると、彼は僅かな従者と共に青海原へ漕ぎ出したのである。
「今になって身元の引き受けですか」
 もっと早くになら助かったのですが、という含みを言外に漂わせながらそう聞くと、いいえそれはもう結構なのですと男が答えた。九十日後、その船が破船となって現れたときには彼等の英雄は発狂しており、船を無理に接岸させたのは彼等の仕業であった。船を巧みに動かせたのは他ならぬ教祖の彼しかいなかったから、仕方の無い措置だったともいえる。
「私達は今後あの男と向き合う気はありませんし、それは私達の中でよくよく話し合って決めたことです。その上で、あの男の身元の引き受けであれば彼が適任だろうという結論に到りました。あなたの仕事の邪魔をする気はありません。あなたがここに来ることは、何を隠そう、あなたの待ち合わせの相手から聞いたものですから」
 待ち合わせの相手はまだ現れなかった。多分家の近くで車をつかまえて来るでしょうから、と存外柔らかい物腰で今まで黙っていた三人目の男が言った。
「お目にかかるのは初めてでしょうが、彼は耳に火傷の跡があるんです。私達の傷は大分前に癒えましたが、彼には今も残っています。それで耳が聞こえない」
 あの男によって耳に火傷を負わされたのですな、と灰色の男は言った。彼等の教祖の最も重い罪状は、彼の信者達に対する暴行だった。船が陸を離れると同時に狂態を現した英雄は、逃げ場が無いことを良いことに、ありとあらゆる罵詈と雑言をまき散らした。自ら巻けと命じた艫縄を巻いたと言って人を蹴飛ばし、ある者は唾を吐きかけられた。彼等がそれに耐えたのは、事前に彼が海へ出たら自らが命じたこととは逆しまのことを成せと命じたからだ。縄をほどけと言えば、更にきつく巻き上げろということだ。男達は黙って彼を縛り上げたが、彼はますます怒り狂った。
 私達ははじめあの男を真の英雄であると思っていましたが、と二人目の男が言う。
「船の座礁と共に目が覚めました。ですが、彼だけは目覚めなかった。あの男もです。陸に上がっても心はまだ船の上にいる。まだ魔性の声を聞いている」
 共に狂人なのです、と最初に声をかけてきた男が頷いて言う。
「あの男が狂気に捕らわれているのはまだ判る。聞けばたちまち虜になる魔性の歌を聞いてしまったのですから、当然のことです。あの男が私達の代わりにそれを聞き、陸に戻ってからそれを歌い聞かせる約束でしたから。けれども船上での狂態を見て私は目が覚めた。仲間の内うちにはまだあの男を信じている者もおりましたが、陸に打ち上げられて尚狂ったままのあの男の姿を見てみな正気に戻りました。戻らなかったのは耳を塞ぎ続けている彼だけ、」
 だからこそ私の待ち合わせ相手は彼だった訳だがと内心呟く。かつては英雄と祭り上げられていた男が、零落の末身元引受人を探していると言っても誰も彼も振り返らなかった。一人耳を悪くして引きこもっていた彼をやっとのことで探し出してここへ呼び出すまでに、一体どれほどの手間暇がかかっただろう。ですから忠告に参ったのです、とはじめの男が言った。
「あなたは仕事もありましょうから、あの男に彼を会わせるなと言うつもりはありません。ただ、彼を哀れんであれこれ余計な世話を焼く必要は無い。それだけを伝えたかったのです。彼は自ら進んで耳を失った。今も、今もです。……航海の間、私達はその歌を聴かないために耳に蝋を流し込みましたが、彼は今も流し込み続けている。航海が終わって、私達は耳から蝋を取り除き、外の音が聞こえるようになったのにもかかわらずです」
 言いたいことを言い終えたのか、灰色の男達は踵を返すと同じような色合いの住宅街へ消えていった。まるで降り出しの雪が積もらず地面に溶けてゆくようだと思った。冷たい地面は雪と同じように凍りついているはずなのに、ほんの僅かに温度が高いのか雪が表面に触れる頃には地面と同じ色になっている。
作品名:静かな海のオデッセイ 作家名:坂鴨禾火