空と海の道の上より Ⅶ
「笠を被り合羽を着た正装で、本堂をバックに写真を撮らせてください」と言われモデルに。私はお遍路さんの正装をしているようです。
十時十五分、仙遊寺発。同じ旧参道を下り、右の山のほうに下る。雨も小降りで下りなので少し楽。さっき登ってきた道や下の畑、家々がきれいに眺められる。
急な下りを降りた後、車のあまり通らない道を四人並んで歩く。ずっと遍路標識、時には人に尋ねながら田舎道を歩き、十二時、五十九番国分寺着。
きれいな落ち着いたお寺。私が拝んでいる間に北海道のお二人はバスか電車で小松へ。正善寺、ここでも電話するが出ない。
十二時四十分、とにかく歩くことにする。国分寺の前を左に、桜井小学校を過ぎたところで左に曲がり国道へ。
一時半、うどん屋さんに入り角さんと二人で昼食。ここで雨も上がり少し日も射す。ここでも正善寺電話するが出ない。
横峰寺に問い合わせ他に泊まるところがあるか尋ねるが、「他にないのでとにかく行ったらどうですか」と言われ歩き始める。
暫く歩いていると、今日は六十一番香園寺迄行って、そこから横峰に上ると言っていた角さんが、
「一緒に行ってもいいですか」と言われる。
「いいですよ。でもまだ泊まれるかどうか分からないから。でももし野宿にでもなったら、一人より二人のほうが私も心強いから、足が大丈夫だったら一緒にどうぞ」と言うと、丹原町に入る分れ道で決めますとのこと。
二時四十五分、東予に入る手前、右に丹原町への遍路標識。ここで国道と別れる。角さんも一緒に歩くとのこと。
三時、道前育成園の前で休憩。公衆電話があり電話するが出ない。
座り込み地図を眺めていると近くに周布とあり、もしかして伯母ちゃんの教会のあるところではと思い、もし正善寺に泊まれなければ伯母ちゃんに尋ね、どこかに泊めてもらおうと、地図をもって育成園の事務室へ。
「正善寺に泊めてもらおうと思うのですが何度電話しても出ないのです。周布に伯母の知り合いがあるのですがこの近くですか」と尋ねると、男の人が、
「あそこは泊めるでしょう。電話しましたか」と聞かれる。
「何度電話しても出ないのですが」と言うと、
「あそこの電話は二つあるのですよ」と別の番号を教えて下さる。
詳しい地図もコピーして下さり、他の職員の方との話しの中、
「歩いて今日で三十四日目です」と言うと男の方が、
「僕、電話してくるわ」とご自分のお金で、園の中の公衆電話で正善寺に電話して下さる。やっと通じて泊めてもらえるとのこと。
この男の方が、「実は私もお寺なんですよ」とおっしゃる。とても親切にして頂き、何度もお礼を言って外へ。角さんが表でずっと待っている。
食事は出来ないと言われたが、泊めてもらえればと、頂いた地図を持って今度は安心して歩きだす。この辺は広い平野で、ゆったりした気分で歩く。
お年寄りの男の人に、
「あんたらはお四国参りの人かな。りっぱな人なんじゃ、拝んだげる」と言って手を合わせ拝まれる。何もいえず二人ともただ頭を下げる。
四時十五分、大明神川橋を渡り、きれいな川原で休憩。角さんと色々な話をする。中島さんとはまた違ったタイプで、文学青年。家庭的に苦労のあった様子。でもとても明るい。私も今までのお参りの話をする。
広い畑ばかりの間をきれいな車道が走り、車に気をつけさえすればのんびりしたところ、なんとか平野という感じ。
角さんの足はかなり痛いらしく、目標が見えてきたので誰かに乗せてもらったら、私は大丈夫だから、と勧めるが歩くとのことに、時々休憩しながら歩く。
道を尋ねるが、正善寺と言っても皆首をかしげる。そこで私が、「いききのお地蔵様へはどう行くのですか」と尋ねると知らない人はなく親切に教えてくれる。
六時半、休憩して前を見ると、目の前に高い山がかすんできれいに見える。石鎚連峰と思うが、どれが石鎚山か分からない。でも嬉しくて嬉しくて堪らない。今日、私は角さんに気の毒なくらい足も痛くなく調子が良い。
七時十二分、ようやく到着。先にお風呂に入り、近くのナイトショップへお弁当を買いに行く。カップうどんとおにぎり、サンドイッチを買う。
角さんは携帯燃料やお鍋まで持っていて、お湯を沸かしてくれ二人でカップラーメンとそれぞれ買ってきたものを食べる。いつも同じような献立ばかりなのでたまにこんなものもおいしい。それから、私は手紙、角さんは葉書を書く。
広い部屋で相部屋だったが、角さんが気を使って宿の人に交渉、寝るのだけ隣の部屋に。
十時、私の方が眠くなり休む。明日は照ちゃんのところに行けるので、洗濯もせずにすみ、今日は遅かったので助かる。
朝五時前に目が覚め、続きを書き始めると、五時過ぎから本堂で朝のお勤めの声、私もこれを書き終わったらお参りしようと思います。
五月二十四日 午前五時五十分
丹原町正善寺(生木地蔵さん)宿坊にて
五月二十四日(水)晴時々曇り
六時半に朝食をお願いしていたが、奥様が六時過ぎに声をかけられ、起きているのを見て朝食を運んで下さる。
その時に、お大師様ゆかりの生木の地蔵とあったので、
「本にはお大師様ゆかりのとありますが、何かお大師様と関係があるのですか」と尋ねますと、「弘法大師一夜作、生木山の由来」と、お寺の由来を書いたパンフレットを持ってきて下さる。
食事の後それを読んで、ここでお大師様が楠にそのままお地蔵様を刻まれ、それで生木のお地蔵様と言われていることを知る。
その木は台風で倒れたが、お地蔵様はご無事で本堂に祀られている。
けれども昔は栄えたが今では面影もなく、パンフレットによると
「不幸にも世の変遷にその跡もなきまでにいたり、本尊様と楠の老木を残すのみにて衰運せしことこそ、悲しい次第であります」と書かれているように、私も想像していたよりさびれたところです。
朝五時頃からお勤めの声が聞こえ、私もお参りしようと思ったが、手紙を書いていて遅くなったので食事の後お参りする。小さなお地蔵様が前にお祀りされていたので、
「それがお大師様のお作りになったのですか」と尋ねると、
「あれはあのような形で彫られていたと、あとから作ったもので、その後ろに金襴のかかったのがお大師様の作られたものです」の言葉に、再び本堂に上がらせて頂きお地蔵様を拝む。
ちょっとお顔が斜めになっているが、等身大より大きいお地蔵様で、下は祭壇に隠れて見えないが今日は日も二十四日、座って眺めていると感激して涙がこぼれる。
こんなことをいっては申し訳ないけれど、そんなにきれいな宿坊ではないが、ここに泊めて頂いたこともお大師様のお導きに思える。
昨日横峰寺のご住職の言葉がなかったら、ここまで歩いてきていなかった。昔、歩いてお参りしていた頃は、ここが横峰山の遍路道だったと聞き、余計有り難い思いになる。
ここ何日かは、温泉などに泊まっていたので気持ちが引き締まり、朝からとても気分が良い。車の通らない、麦の実った広い畑の中を二人で歩く。
角さんは足がまだ悪く、私は時々メモを取るので並んで歩くのではなく、離れたり追いついたりしながら歩く。お蔭で気を使わずメモを取ることが出来る。
作品名:空と海の道の上より Ⅶ 作家名:こあみ