Clad
姫浦は、前を走るメルセデスの中で動く川崎と唐谷の頭を見つめながら、言った。二人はしきりに話している。昼前にも、一階で長い時間話し込んでいた。
外神が不安げな表情で見ていることに気づき、姫浦は愛想笑いを返した。
「ランドクルーザーより機敏なので、いつでも車列から抜けられます」
「わたし、本当に銃を持ってなくてよかった」
外神は、幼さの残る掠れた声で呟いた。姫浦は、依頼を受けたときのことを思い出しながら、言った。
「本当に欲しくなったら、教えてください」
外神の父は、用心深い性格だった。様式や手順にこだわり、優しい母親を持つ娘からすれば怖い面もあったが、パズルや謎かけをすらすらと解く姿は憧れだった。小学校の勉強が難しくなると、決して答えは言うことなく、何時間も宿題に付き合ってくれた。仕事で『鈴木』と呼ばれていることを知ったのは、父が死ぬ前日の夜だった。外神は十歳で、夜中に帰ってきた父が金庫へ書類を仕舞いこむのを見ていた。携帯電話を耳に挟んで『鈴木だ』と話し始めるその後ろ姿には、昔から重ね続けてきた精悍さや、何事にも動じない強さのようなものが感じられず、自分が声を発したらその背中をさらに痛めつける気がして、外神は父が電話を終えてからも、話しかけられずにいた。棺が閉じられたままの葬式が終わり、母がひとしきり嘆いた後、ようやく父が死んだということを理解した。
「仲間割れをさせたかったけど、うまくいきませんでしたね」
外神は、当てが外れて失望したように、パーカーの紐をくるくる回した。メルセデスのブレーキランプを眺めながら姫浦の方を向くと、姫浦は同じような残念さを込めて肩をすくめた。世界の裏側を渡り歩くことを決めた十六歳の少女が考えた、復讐。定石通り、父が残した書類に残された手がかりを辿った。まず辿り着いたのは、父の雇い主が、自分の死後に事後処理を依頼している殺し屋。姫浦はバックミラーに視線を向けて、ランドクルーザーの車間距離が変わっていないことを確認してから、スリングに吊ったままのモスバーグの位置を調節した。若町の死後の事後処理を依頼されている殺し屋は、契約を交わしたときは二十二歳。当時は、骨折した足の指を治療中だった。若くて未熟でも構わないから、とりあえず人を充てておけという理由で、姫浦は選ばれた。
外神の依頼は、組織に属さないプロを別に雇い、妨害工作を仕掛けて本田と川崎を仲間割れさせることだった。どの道、本田と川崎には組織を裏切るか、仲間割れするかの選択肢しか用意されていない。最終的に散弾を頭に受けて死ぬことには変わりないが、それは少なくとも、その理由を理解してからだ。長く緩やかにくねる海沿いの道に出て、姫浦はアクセルを踏み込んだ。クラウンの窓枠に発信機を貼り付けるとき以外は総じて楽だったが、それでも油断はできない。だからこそ、組織に属さないプロはひとりしか思いつかなかった。かつて、組織で自分を教えた人間。外神の父が『鈴木』と呼ばれていたように、『神崎』と呼ばれていた。フリーランスらしく、直接顔を見せず、話すこともない。
この違和感を、神崎ならどう捉えるだろう。姫浦は、基本的な車列のルールを思い出しながら、ハンドルに力を込めた。本来なら、この車列は依頼人を守るためのものだ。しかしその位置には、川崎と唐谷のメルセデスがいる。
神崎は、腕時計に視線を落とした。十五分が過ぎたが、人の気配は一切戻ってこない。最後の依頼は、倉庫に現れた人間に致命傷ではない程度の怪我を負わせることだった。つまり、殺しではない。フリーランスだから断れないが、これでは本当の何でも屋だ。今もこうやって、一円にもならないことを命を挺してやっている。自分の性分に呆れながら、神崎は言った。
「自分が死んだときのために、事後処理をする殺し屋を雇いましたか?」
瞬きは一回だったが、その後に続けて数回、若町は瞬きを繰り返した。神崎は辺りを見回し、組み立てられていない段ボールを引き寄せると、作業台の上に置かれたペン立てからマーカーを抜いた。五十音を大きく書いて、若町に見せた。
「発言できないのは辛いでしょう。手を五十音の順番に動かすので、瞬きをした場所で止めます。何か言いたいときは、それでいきましょう」
神崎はそう言うと、スマートフォンを取り出して写真を開いた。三十代後半になって知恵の輪に取り組むことになるとは思わなかった。バックパックの中身は書類の複写で、透かし文字がさらにコピーされた痕があった。つまり、原本以外にもう一部があるはずだ。神崎は、契約書の写真を若町から見えるよう、顔の前にかざしながら言った。
「でも、先にわたしの話を聞いてください。七年前にあなたが雇ったのは、姫浦絵梨。当時はまだ新人でした。彼女に仕事を教えたのは、わたしです」
懐かしい名前を拾い上げ、実際に仕事をしている姿を見た。その上で確信しているのは、自分の雇い主が姫浦だということ。全体像は分からないが、目的は組織に揺さぶりをかけることだ。そして実際、その通りになっている。しばらく沈黙が流れ、神崎が目を向けたとき、若町は瞬きを数回繰り返した。文字盤の段ボールを掲げると、神崎は言った。
「どうぞ」
若町が瞬きをしたところで手を止め、指定された文字を一文字ずつ書いていく。その一連の動作が終わったとき、神崎は呟いた。
「誰に?」
若町が伝えたかったことは短かったが、それが意味するところは充分に伝わった。神崎は、自分で書いた字ではないような距離感を持って、その文字を眺めた。
『こえをきられた』
神崎は答えを知るために、『あ』の位置へ再び手を置いた。遠くから数台分のエンジン音が聞こえる。その中には、聞き覚えのあるメルセデスのエンジン音も混ざっていた。若町の瞬きを文字に変えていき、ひらがなを起こした神崎は、二十二口径を手に取った。若町が声を出せないように、声帯を切り落とした人間の名前が書かれていた。
『からたに かわさき』
神崎は、この家を狙うとして最も効率のいい、少し高くなった林に意識を向けた。さらに音が近づき、ディーゼルエンジンと、直列エンジンの排気音だということが分かった。
「唐谷と川崎は、二人で逃げたいんでしょうね。二人が金庫を狙っているとすれば」
地下一階と三階で見つけた金庫のことを思い出しながら、神崎は誰にともなく言った。若町は聞いている意思表示をするように、一回瞬きをした。
「簡単なのは、ここに死体を残すことです。自分たちが追われるまでの時間稼ぎに使えます」
神崎は言い切ってから一度小さなため息をつくと、フリーランスの面倒さにうんざりしたように、宙を仰いだ。死体が残るとすれば、それは姫浦だ。もしかしたら、あの倉庫で対面した不幸な男と、依頼人も。バックパックの中に入っていた、優しい笑顔を向けている親子の写真。そこに写る娘は小学生だが、姫浦の隣を歩いていたパーカーの少女で間違いないだろう。殺しは一方的であるほどいいとあれだけ教え込んだのに、姫浦は常に複雑な方へ傾いていく。
「すみませんが、ひと役買ってもらいますよ。わたしは姫浦に先手を打たせないといけないので」