Clad
六年前、鈴木は運転役をやると言い出した。そして、ひとりだけ家庭を持つ身だから、これが成功したら抜けるとも。降り始めた雨をワイパーで弾き飛ばしながら、本田は当時の自分が言った言葉を思い出していた。確か、鈴木に直接『この手のことには、根回しが要るぞ』と言った。鈴木が席を外してから、川崎は『いつか、鈴木から足がつくかもしれない』と言い、山羽は『そうなったら殺っちまえばいい』と言った。それでも話だけはとんとん拍子で進み、『勝手な解釈による退職金』を取るための金庫破りを雇った。ちょうど若町が不在のときに調べさせて、何らかの通知システムがあるらしいことが発覚した。それ自体は想定内というか、何かがあるだろうというのは薄々分かっていた。意外だったのは、鈴木の『動機』の部分だった。鈴木は、金が取れなくても抜けると言い出したのだ。
そして、誰も結論を出せない内に、最悪の手段を取った。金庫破りを無理やり連れてきて地下の金庫を開けさせ、中から書類を盗み出したのだ。人質を取れば手出しはされないだろうと思ったのかもしれないが、ほとんどの場合、そういう人間は交渉のテーブルに乗る前に殺される。実際、そうなった。
バックパックの中身は、鈴木が盗み出した書類のコピー。それが何なのかは、知恵の輪で閉じられていて開ける気にもならなかったが、取り返しはした。少なくとも、六年を経て依頼人の外神が回収を試みているのだから、何らかの価値はあるのだろう。
取引材料である大事なバックパックを持った鈴木の乗るランサー。突然コントロールを失ってコンクリートの岸壁に激突したのは、右のフロントタイヤがバーストしたことが原因だが、それを引き起こしたのは川崎の細工だ。バックパックは後部座席から飛び出して、フロントガラスに引っかかっていた。そうやって、鈴木は死んだ。つまり代償なんてものは、存在しないのだ。少なくとも、山羽は無関係だった。
川崎の倉庫が見えてきて、本田はクラウンを路肩に寄せた。入るのは簡単だし、見つかっても『あ、本田さん』で済む。ただ、その遭遇自体を避けたい。一番手薄なのは、従業員が昼の休憩に出る時間帯で、あと一時間待てばそのタイミングにぶつかる。
外神は、川崎が一階に下りていったタイミングを見計らっていたように、姫浦に言った。
「うまくいくんでしょうか?」
「人のやることなので、何とも言えません」
姫浦はそう言って、空っぽになった部屋を見渡した。防犯カメラと外の音に対する意識は続いていて、外神はその様子をしばらく眺めた後、言った。
「どんな人に教わったんですか?」
姫浦は集中力を途切れさせることなく、ちらりと視線を向けた。外神は補足するように続けた。
「座る位置とか、見る方向とか。全部意味があるんですよね?」
姫浦は小さくうなずいた。少しばらついた前髪を手で除けると言った。
「冗談が全く通じない人に、教わりました」
外神はパーカーの紐から手を放して、笑った。
「せんせーなんですね。今も教わってるんですか?」
「いえ。その人は組織から抜けたので、もう教わることはないですね」
姫浦はそう言って、一階から音を全て吸い上げるように、耳を澄ませた。外神も同じようにしたが、二人分の話し声が振動になって伝わって来るだけで、内容は聞き取れなかった。しばらく沈黙が流れた後、姫浦が一階に向けていた意識を途切れさせたタイミングを狙って、言った。
「敵同士になることもあるんですか?」
「あり得ます」
姫浦はそう言いながら、神崎が同じ組織にいた頃のことを思い出していた。フリーランスになって、海外へ出たのが三年前。今どのようなやり方で仕事をしているのか、その流儀は全く分からない。
『殺しは一方的であればあるほどいい』
それが神崎の口癖だったが、姫浦はその教えだけは守ることなく、十九歳から二十九歳になるまでの十年間、体のあちこちに隙間なく怪我を負ってきた。それでも仕事が未完了で終わったことは、今のところない。
「もし出くわしたら、引き金を引けないといけないんですね」
外神が言うと、考えを中断した姫浦は、笑いながらうなずいた。
「わたしは全身の骨が折れても、指さえ動けば引き金を引きます。なのでおそらく、わたしが殺すことになると思います」
本田は、クラウンアスリートを倉庫の裏手にある広大な空き地に停めて、静かに降りた。十二時のチャイムがどこかの工場から鳴り響き、倉庫の中から数人が出て行くのが見えた。事務員は電話番で残り続けるが、記憶の通りなら、スマートフォンを眺めているだけで席から動こうとはしない。車回しから脇道に逸れて、変電施設の脇にある通用口から入ると、本田は一直線に、早足で目的の棚まで歩いた。照明が届かない、少し薄暗くなったエリア。置いたときのことすら、覚えている。とにかく回収したという事実だけで、頭が一杯だった。船舶用オイルの缶が並んでいる裏に寝かせた。倉庫が本来取り扱わない品物だから、動かされることもない。本田は当時の記憶を蘇らせながら一度腕時計に視線を落とすと、オイルの缶をどけた。埃を被ったバックパックが姿を現し、息を止めて引きずり出した。そう、常にここにあったのだ。鈴木が何をどこまで考えていたのか、当時はそれも分からなかったから、捨てるわけにもいかなかった。事故で即死させることなく聞き出していれば楽だったが、川崎はいつだって、最速で最短距離の結果を求めるタイプの人間だった。小さく息をつくと、本田は立ち上がった。同時に真後ろから膝を蹴られ、バランスを崩した所へ追い打ちをかけるように体を突き飛ばされた。棚の真横に立てられたパイプに頭から激突し、本田は意識を失った。
神崎は二十二口径を抜いて本田の頭に向けたが、指定されたルールを思い出して、引き金を引くのを思いとどまった。ファスナーをがっちりと留める知恵の輪を見て、苦笑いを浮かべると、本田を仰向けにひっくり返して、その顔を頭に入れた。この男は、自分が依頼されたのと全く同じ物を取りに来た。それも、同じタイミングで。
唐谷が三人分のサンドイッチを作ってダイニングテーブルに用意し、川崎は姫浦と向かい合わせに座って、誕生日席には外神が座った。
「色々とすみません」
外神が言うと、唐谷は栄養ドリンクをストローで吸い込みながら器用に笑顔を見せた。
「料理はあまり得意じゃないんですけど」
川崎が大皿からひとつを取ると、ひと口でほとんど半分をかじりながら言った。
「本田は貧乏くじだな。サンドイッチに当たらなかった」
「どうして、わたしを連れて行かなかったんでしょう」
姫浦は目の前にサンドイッチが存在しないように、川崎の目を見たまま言った。
「色々あるんだろ」
川崎は珈琲をひと口飲んで、唐谷を呼び寄せた。
「お前、栄養ドリンクだけで夜まで持つのか?」
唐谷は首をかしげたが、川崎の目に根負けしたように席に着くと、サンドイッチをひとつ手に取った。姿勢を崩さない姫浦に笑いかけると、言った。
「本田さんは、ああ見えて結構強いんですよ」
川崎はそれを聞いて苦笑いを浮かべると、言った。
「ああ見えてって、何だよ」
「見た感じ、普通の人じゃないですか」