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短編集96(過去作品)

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 意固地だったのだろう。友達と一緒にいたいと思いながら、一緒にいる姿を想像できない自分、苛立ちが意固地に変わったとしても不思議ではない。だが、それらの考え方すべてが、所詮自分の中でしか回っていないことを意識してはいなかったのだ。意固地が正当化された理由はそこにある。
 部屋の中から吹き出してくる冷たさよりも、むしろ、誰もいないことを今まで寂しいと感じていなかったことが疲れを感じさせなかった。冷たさが寂しさに直結していないから、疲れが汗となって噴出してこなかったに違いない。昨日の冷たさは、
――誰か他に人がいたのかも知れない――
 と感じることで、それがもう一人の自分であることに気付いた。
 それを気付かせたのは、玄関にある鏡だった。いつもはすぐにリビングまで急ぐので気にすることのない玄関の鏡、大体玄関に鏡があることを不思議に感じなかったのもおかしなことである。最初からついていたので気にならなかった。
 結局、アルバイトをやめることなく続けていた。就職活動が本格化するまで続けていたが、その頃になると、
「下田君は、すっかり社会人の表情になってきたね」
 と、アルバイト先の課長から言われた。嬉しくもあり、何ともくすぐったい気持ちである。
 完全な肉体労働だったアルバイトだが、課長はネクタイを締めて、身体を動かすことをしない。年齢的には四十歳前半くらいで、家に帰れば奥さんが食事を作って待っているような光景が眼に浮かんだ。課長を見ていると典型的なサラリーマン生活しか思い浮かばないのである。
 ゴムの匂いと結びつかない課長だったが、まるで現場の事務所とも言えるような簡素な作りの事務所にいても違和感はない。だが、そこにいなくとも別におかしな雰囲気ではない。それだけ雰囲気に埋まっているのだ。「石ころ」のような存在と言ってもいいだろう。ずっと見ていると課長が数十年後の自分に見えてくるから不思議だった。
 ネクタイは真っ赤が似合っていた。たまにブルーやグレーのネクタイをしてくるが、地味すぎる印象しか湧いてこない。最初は地味に見えた課長の存在が、次第に大きくなっていったのは、ネクタイの赤い色を意識していったからである。
――課長のようなサラリーマンになりたい――
 と、いつしか課長に将来の自分を照らし合わせていた。
 しかし、課長を見ていると、子供の頃も思い出せるのだ。漠然としてしか思い出せないが、あまり課長を見ていて思い浮かべる子供の頃の思い出は思い出したくないもののようである。
 梅田が死んだ時のことを思い出していた。あの時、梅田に何か悪いことをしてしまったという記憶が大きく、それが課長を見ていると思い出される。
 課長とダブってしまうわけではない。似ても似つかない人だった。
 その人は、疲れ果てていた。人生に疲れ果てるとはまさしくそのことをいうのだろう。その時までに見ていた大人とはまったく違う人種、まるでテレビとラマのワンシーンを見ているようだった。
 男の身体からは泥酔しているのか、アルコールの匂いが充満していた。すれ違った瞬間、思わず吐き気を催し、吐き気がなければ、ひょっとしてそのままやり過ごしていたかも知れない。
 振り向いた瞬間、背中が小さく見えた。丸まった背中に夕日が当たっていて、足元には影が歪に伸びていた。手足が長く、頭は歪な楕円を描いている。
 背中に感じた哀愁から、ゴムとシンナーの匂いがしてきた。ゴムだけの匂いであれば、それ以上気にすることもなかったであろう。
 アルコールの染み渡った身体から、シンナーの匂いが漂っている。これが吐き気の原因だったようだ。
 男が一度だけこちらを振り向いた。グレーのスーツに真っ赤なネクタイ。着こなしがよければ立派なサラリーマンなのだが、まるっきり乱れきってしまっていて、これほどだらしないものはない。課長から連想したのは、真っ赤なネクタイだけであった。それ以外は似ても似つかない男だった。
 顔つきも、無精ひげが目立ち、色も全体的に黒かった。それも健康的な黒でないことは見てすぐに分かった。自分が病気なので、相手の顔色には敏感だったのだ。目は虚空を見つめている。背筋が丸まっているのは、完全に無意識に違いない。
 意識などその時の男にあっただろうか。立っているのがやっとに見えて、その男がどうなるか、最初から分かっていたように思えてならない。
 それから数十分後に男が空き地の粗大ごみ捨てを彷徨っている時、扉が開いている大きな冷蔵庫があったのは、ただの偶然には思えなかった。吸い寄せられるように男が歩いていく。ちょうどその時にやってきたのが梅田だった。
「おい、どうしたんだい? 何を見ているんだい?」
 静雄の視線に不穏なものを感じたのだろうか、目で追うように視線の先を見つめた梅田も、静雄同様に視線はその男に釘付けになっていた。
 梅田にも同じように、その男の行く末が分かっていたのかも知れない。
 しかし、それから最後にどうなったか、目の前にいたにも関わらず、ハッキリと見たわけではない。目の前が急に眩しくなり、閃光のようなものが光った。まともに正面を向いていられる状況ではなかった。
 その時見たのは梅田の横顔だった。真っ白に塗られ、のっぺらぼうのようになった顔には目や鼻、耳の形が見えているだけである。
――なんて気持ち悪いんだ――
 と思った瞬間、梅田がこちらを振り向き、意味不明な笑みを浮かべた。それを思い出したのは、大学時代、玄関先にある鏡を意識した時、鏡の中のもう一人の自分を感じた時だった。
――もう一人の自分というのは、その時の梅田だったんだろうか――
 梅田の目が微笑んでいる。その時すでに、梅田は何もかも知っていたに違いない。目の前の男の運命も、そして自分の運命も。
 その時以来、静雄にはトラウマが残ってしまった。
 男を見殺しにしたわけではないのだ。確かにその時、閃光が目の前を走り抜け、気がつけば、静雄にも梅田にもどうすることもできない状態になっていた。
 もし、それから数日後に梅田が帰らぬ人にならなければどうなっていただろう?
 ひょっとして、自分が帰らぬ人になっていたかも知れない。
 目の前で閃光を見たら、それは死の予感なのだろう。子供心にすべてを梅田に押し付けて、自分は無関係だと思いたかった。だが、梅田は死によってもう一人の静雄としてずっと静雄を見続けている。
 真っ赤な色と真っ白い閃光、そしてゴムやシンナーの匂い、すべてが静雄にとって忌まわしい過去になってしまった。
 鏡は今日も静雄を見続ける。ゴムの匂いを感じながら……。

                (  完  )






作品名:短編集96(過去作品) 作家名:森本晃次