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短編集96(過去作品)

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無性に人を殺したくなる瞬間



               無性に人を殺したくなる瞬間

 扉が開いていればついつい覗きたくなってしまうのも人間の習性と言ってもいいのではないだろうか。生田友則も普段はあまり気にならないのだが、その日に限って気になってしまったのは、やはり心のどこかで富樫順子を諦めきれない自分がいたからだろうと感じていた。
 順子というのは、友則が今まで好きになった女性の中でも一番忘れられない女性である。社内恋愛などご法度だと思っていたはずなのに、好きになってしまったことを後悔しても始まらないが、人から指摘されなければ心の中でソッと思っていただけで終わっていたかも知れない。
「あなた、富樫さんのことが好きなんでしょう?」
 配属になった支店のパートのおばさんに指摘されたのが最初だった。見るからにおせっかい焼きという感じのその人は、今までにもそうやって何人もの新入社員に指摘して、実際に結婚まで至った人も多かったようだ。それを自慢げに話すのであるが、考えてみれば成功した事例しか話すわけもなく、それ以外にも失敗した事例が山ほどあるに違いない。そのことを分かっていたはずなのに、まるで魔法に掛かったかのようにパートのおばさんお言葉を鵜呑みにしていたのは、それだけ順子の笑顔が友則にとって癒しになっていたからだ。
 順子もまんざらではなかったに違いない。実際に告白するまでに時間は掛からなかった。転勤してから一ヵ月後の社員旅行、宴会でのアルコールの勢いも手伝ってか、
「もしよかったら、僕とお付き合いをしてほしいんですけれども」
 と、活舌もよく言うことができた。
 それを聞いていた順子の顔は真っ赤で、それがアルコールによるものなのか、それともいきなりの告白に戸惑っていたのか分からないが、友則を見つめる目は明らかに輝きに満ちていた。
 もっともいきなりというのはどうであろうか。事務所の中ではパートさんたちの噂というのは恐ろしく、指摘された翌日にはすでにほとんどの人の耳に友則が順子を気にしているということが伝わっていた。中には、
「そんなことは私にも分かっていたわ」
 という人もいたようで、それだけ友則の視線が露骨だったということを示しているのかも知れない。
 告白した時の順子の返事は、
「私あなたより年上なのよ」
 二つ年上なのは知っていた。だが、彼女のあどけない表情は年上などということを感じさせないほど、それよりも声の可愛らしさは、どんな癒しも叶わないと思えるほどだった。
「そんなことは関係ないです」
 直立不動で答えていた友則は、自分がどれだけ真剣かということを相手に分かってもらいたいという気持ちと、自分に順子が好きなんだという気持ちを言い聞かせるためには必要なことだった。それだけ女性への告白というのは、今までにしたことがないだけに勇気のいるものだった。
 高いものを購入する時には意外と悩むことはないが、中途半端な値段の時には結構長い時間躊躇してしまうものだ。高いものを買う時は最初からある程度心の中で決定してから買いにいくので、後は思い切りだけである。しかし中途半端な値段のものの時は、思い切るまでにどれがいいか悩んでしまうのは、優柔不断な性格を垣間見る唯一の時なのかも知れない。
 女性への告白とものを買うということを単純比較できるわけはないが、告白している時に頭にあったのは、高額なものを買う時の思い切りのようなものだった。最近買った高額のものといえば、車だったが、これも会社の先輩の口利きで、いい中古車が手に入ったことで、それほど躊躇することもなく、後は思い切りだったことを思い出していたのだ。
 告白するのは順子しかいるはずはない。順子だけを見ていればそれだけで癒しになったし、かといってまわりに気持ちを知られては告白せざるおえなくなってしまっていた。
 もうこうなってしまっては告白するしかなかったのである。
――順子さんはどんな気持ちで聞いてくれるのだろう――
 ただ、気になる噂がないわけではない。いや、その気になる噂があるだけに、まわりの人が友則にとって追い風となってくれたことは皮肉というべきだろうか。
――もし他の人であれば告白までするだろうか――
 とも考えたが、そのことは順子の口から直接聞いてみたいという気もしていた。
 告白した時、年齢のことはスッと話せた順子だが、さすがに次の言葉を発するまでには少し時間を要したのだ。
 俯き加減の順子は恥ずかしがっているようだった。若い新入社員の男の子から告白されて、すぐに、
「はい、そうですか」
 というわけにはいかないことを口にするには彼女も勇気がいったことだろう。だが、頭を上げた時にはしっかり開き直っていたのか、真っ赤だった顔は普段の顔色に戻っていた。
「実は私ね。あなたが赴任してくる少し前まで、この支店にいた人とお付き合いしていたの」
――やっぱり――
 噂は少しだけ聞いていたが、本当だったのだ。だが、それも表面だけしか知らず、二人がどこまでの関係だったかなどは、あくまでも噂でしかなかった。だが、噂のほとんどは、
「二人は結婚寸前だったみたいよ」
 ということだったのだ。
 その相手が友則と入れ替わりに他の支店に転勤になったのは偶然だったのだろうか。ハッキリとは誰も知らないようだった。
 それだけに友則が転勤でやってきたのは、他の人から見れば偶然だったにしても、運命のようなものを感じたのかも知れない。何しろ友則が自分で意識する前に指摘されたのだ。それだけ友則が鈍感だったといってしまえばそれまでだが、本当にそれだけなのだろうか。自分でも分からない友則だった。
 順子という女性が本当に素晴らしい女性であると感じたのは、その時だった。その思いがしばらく続き、順子だけしか見えていなかった。
――これが人を好きになるということなのだ――
 それまでにも女性を好きになったことはあっただろうが、ここまで気持ちが高ぶったこともなかった。
 自分が意識する前に、彼女のことを隅々まで知っていた人がいると思うだけで、気持ちが高ぶってくる。それが嫉妬だと気付いたのはしばらくしてからで、嫉妬とは女性がするものだと思っていた友則の思いは脆くも崩れ去った。
 しかし嫉妬を女々しいものだと思わないのは、自分が陥ったから言い訳がましく思っているだけではない。人を好きになるという気持ちの裏返しに潜む思いが嫉妬だと感じたからだ。
 順子と付き合い始めてから喧嘩が絶えなかった。彼女は事あるごとに前の彼氏の話を持ち出す。喧嘩腰になっている人に何を言っても通じないが、普段大人しいだけに、切れた時の剣幕には驚かされる。理屈が通じないのだ。
 最初はたまに切れることがある程度だったが、目立ち始めると、付き合っていくことに疲労を感じてきた。どこから来る疲労か分からなかったほど、順子のことを愛していると思っていたが、思い込みだと分かってからは、友則の方が避けるようになっていた。
 避けられていると思うと、今度は甘えるような態度で迫ってくる順子。女性に甘えられると弱い友則は、面と向うと怒りもどこへやらか吹っ飛んでしまう。
作品名:短編集96(過去作品) 作家名:森本晃次