短編集95(過去作品)
同期入社が何人かいたが、彼らも同じようにストレスからか、憂鬱な気分になっているようだった。
「これが五月病ってやつかな?」
と話しているやつもいたが、話には聞いていたが、五月病というもの、あまりにも漠然としていて、よく分からない。漠然としているものをわかれ、と言う方が無理であろう。
学生時代であれば、本を読んで気を紛らわせることもできたが、就職して現実の壁にぶつかってみると、本の世界では解消できないストレスの存在に気がついたのだ。今までのようにまわりから自分を隠して、本の世界に入り込むようなことはなくなっていた。
――人との交流を大切にしていこう――
と思うようになった。まずは、同期入社の連中からだった。なかなか会社にいて、上司や先輩と同等に話ができるほど、人との交流がうまいわけではない。何しろ学生時代で話をしてきたのは、吉村だけだったからだ。
まわりが坂崎を見る目も気になってくる。
「いつも一人でいる一匹狼のようなやつだな」
と思われているかも知れない。一人でいると、どうしてもまわりに対する警戒心の目が養われてくるだろう。学生時代は目立たなくとも、人を見て自分の行動を決めないといけないことも往々にしてある社会に出たのだから、まわりの目も相当シビアなはずである。
卑屈なまでに、自分を売り込むことを選択した。まずは、相手に嫌がられては話しにならない。それには、相手に気に入られることが大切で、それにはプライドを捨てなければいけないだろう。
そういえば、プライドという言葉、今までに考えたこともなかった。自分の中に小説世界を描いて、主人公に当て嵌めて客観的に見てきた中で、どこかに存在していたであろうプライド、今思い起こしても、どこにプライドがあったのか分からない。その証拠に卑屈とも思えるほど人に馴れ馴れしく話しかけることに対して抵抗はなかった。最初は、
――俺にできるだろうか――
と思っていたが、それは、相手の反応を考えていなかったからだった。臨機応変に相手の反応を見ながら会話を続けていると、プライドなど、最初からなかったように感じるから不思議だった。
あれは同期入社の連中と呑みに行った時のことだった。
居酒屋で呑んでいて話が盛り上がってしまった。坂崎も悪酔いしたのかも知れない。今まであまり大勢の中で話をしたことがなかったので分からなかったが、これほど、たくさんの人間と話をするのが楽しいことだったとは、思いもしなかった。
特に話が女の話になると、必ず盛り上がるやつというのはいるのだろう。一人武勇伝のように場を仕切るやつがいた。
今までに何人の女性と付き合ってきたかや、泣かせた女の数まで話すやつ。内容にしても完全に自分の武勇伝のように語っているが、それも酔っているから格好良く聞こえるからで、実際はもっと生臭いものではないだろうか、酔っていた坂崎にそこまで考える余裕はなかった。
――たくさんの人で呑む酒がこれほどおいしく、そして楽しいなんて、どうして今まで気付かなかったんだろう――
と、考えただけで、勝手に顔がほころんでくることだろう。
ほろ酔い気分は楽しく、居酒屋の微妙な明るさで光っている皆の顔が、実に楽しそうに見えて、自分も同じような表情をしているんだろうと感じると、さらに楽しい気分になってくる。
武勇伝の話が、今度は風俗の話に変わっていった。
彼女がいても風俗にいく男性の気持ちが坂崎には分からない。風俗というと、彼女もおらず、身体がたまらなく寂しい男が行くところだろうという思いがあったからだ。だが、彼の話を聞いていると、風俗とは男の遊びであって、まるでパチンコや競馬といった軽いギャンブルをするような感覚に聞こえてくるから不思議である。
「風俗だって、ある意味男の甲斐性のようなものじゃないかな」
正当化されても仕方がないのだが、酔っていると本当に聞こえてくる。坂崎も一度行ってみたくなったのも、悪酔いしていたからだろう。
その日、皆と別れてそれぞれ一人になった。二次会が済んで時計を見ると、まだ日にちは変わっていなかった。
だが、最終電車があるわけではない。ここままタクシーで帰ってもよかったのだが、タクシー乗り場に行くとすでに数十人が列を作って待っている。最終電車に乗り遅れた連中がタクシーを待っているのだ。
皆それぞれの思いでタクシーを待っているのだろう。コート姿のサラリーマンは、襟を立てて新聞を読んでいる。その真面目な表情は普段の自分を見ているようで、いつもなら頼もしく見えるのかも知れないが、その日に限っては寂しさだけが表に出ているように思えてならない。
――きっと家に帰れば、家族がいるんだろうな――
暖かい家庭を思い浮かべる。家族のために必死になって仕事して、残業時間をフルに使って今の時間になったのだろうか? それとも会社の接待か何かでこんな時間になったのだろうか? どちらにしても仕事関係で遅くなったに違いない。本当に未来の自分を見ているようである。
その後ろにはOL風の女性、彼女は露骨に寒さの中、震えているのが分かった。早く帰りたい一心なのだろう。だが、なかなか来ないタクシーに苛立ちを覚えながらも女性という立場、キレてはいけないという気持ちだけで必死に寒さに耐えている姿は痛々しい。
――男に生まれてよかった――
真剣にそう思ったものだ。
――もうタクシーに並ぶ気力などないな――
普段であっても、これだけの人数を見れば諦めるはずだ。元々短気な性格である。
学生時代から、時間には厳しい方だった。親の教育がそうだったからで、約束の時間よりも必ず十分前にはついていた。何かが始まるにしても、十分前についていれば、必ず先頭グループに並ぶことができるので、実際に長蛇の列が形成されたとしても、列全体を見ることはなかった。
いつも先頭にいるということは、前しか見ていないということも同様である。後ろを見ることがあっても、それは自分には関係のないことだという気持ちが強かった。
タクシー乗り場を見た瞬間、酔っていなければ、すぐにでも踵を返したに違いない。だが、なぜ長蛇の列を注目してしまったのだろう? 自分でも分からない。きっと見てしまった悲哀に自分を照らし合わせてみようと考えたからに違いない。だが、自分に照らし合わせようとしても、その列の中にいる自分が目に浮かばない。本当であれば最初のサラリーマンか、次のOLくらいのところに自分がいるのだろうが、待っている自分がどんな恰好でそしてどんな気持ちでいるのかが想像つかない。
もし待っているとすれば、きっといろいろなことを考えながら待っているに違いない。仕事のことが一番だろうが、そこからいろいろな発想を思い浮かべるのだろうが、いつも何かを考えているという自覚はあるのに、何を考えているかピンと来ないのも、その場にいる自分が想像できないことに繋がっている。
しばらく見ていたが、タクシー乗り場に並んでいた数十人の人たちの目に、坂崎の姿がどのように写ったであろう。
「おかしな人が一人佇んでいるな」
くらいのものだろう。
――いや、待てよ――
作品名:短編集95(過去作品) 作家名:森本晃次