ドールメイカー
ep1. sweet pea
これから通うであろう仕事場に入る前に、まずすべき事は深呼吸。乱れた呼吸を整えて、はやる気持ちを落ち着けなくちゃいけない。
そして次にイメージする。どんな不測の事態にも対応できるよう、頭の中で様々な可能性を考える。そうすれば、何が起きたって慌てずにいられる。予想を超える事態が起きたって何とかなるはず。
準備が出来たら、気を引き締めて目の前の赤い扉の端にあるベルを鳴ら……。
「ンじゃ、マスター! 行ってくらぁ!!」
「むぎゃあっ!!」
……す前に急に扉がこちら側に開いた。
こんな事態を想定してなかったわけじゃないけど、対応できなきゃ意味がない……。
しっかりした作りの木製の扉が僕の額に直撃する。想像以上に痛かった。ドスのきいた男らしい声が間近で聞こえた気がするけど、あっと言う間に僕の意識は深く沈んでいってしまった。
――そこは二人の秘密の場所だった。
両親にも祖母にもナイショの二人だけの秘密の場所。
「ずっとずーっと僕のお姉ちゃんでいてね」
「当然。ネリア、君を守るのは姉であるペチュニアの役目ですから」
その言葉はどこか義務的で、ちょっとだけ寂しかった。
「お姉ちゃん……」
「かーっ!! 誰が姉ちゃんだいつまで寝てんだゴルァ! 干すぞボケ!!」
「いだーっ!!!!」
後頭部に鈍い一撃。
覚醒しかけていた意識が真っ暗闇へ逆戻りしそうになるのをぐっと堪え、大慌てで拳が飛んできた方を見る。そこには背の高い男性が一人立っていた。いかにも裏で程度の低い悪さをしていそうな、態度のでかい茶髪の青年だった。
今の言動と行動から想像するに、彼はきっとヤンキーだ。怖い人だ。そうに違いない。眼つきも悪いし。マフィアとか幹部とか麻薬組織とかそんなのだったらどうしよう。助けておかーさーん!
そこまで考えた僕は、寝かされていた革製のソファから飛び降りて扉の方へ駆けた。
身の危険を感じたからだ。
「てめ、折角カイホーしててやったのに、その態度はなンだってんだ?」
「うえぇ、あの、ごめんなさいごめんなさい! お金なら払いますからーっ!!!」
どうしよう。法外な金額を請求されるかもしれない。
ほぼ家出同然でこの街に来た僕は、彼が納得するくらいの額のお金なんて持っていない。というか、ほぼ無一文だ。となれば、このまま逃げるしか生き残る道は無いだろう。
尋常じゃない汗と涙がだらだらと肌を伝っていくのを感じながら、男性の方を注意しつつ必死に扉の方へ辿り着く。茶色のシンプルな扉は鍵はかかっていないようだが、しっかりと閉じられていた。
開けた途端に仁王立ちしている男に襲い掛かられそうで、僕は蛇に睨まれたカエルさんのようにそのまま動けなくなってしまった。
よく見ると彼はハートのアップリケのついたエプロンを着て、頭にはまんまるの飾りのついたゴムで前髪をしばっている。普通ならばかわいい装飾も、でかい顔で凄んでいる青年がつけていると逆に怖い。泣きそうになった。
「アイサツも無したぁ、未来のドールマスターに向かってシツレーだろーがよぉ!?」
「ごごごごめんなさ……え? ドールマスターって、じゃあ君は」
「スピネルくん、お客さんは起きましたか」
スピネル、と呼ばれた茶髪ヤンキーの向こう側にある扉がガチャリと開いた。
扉の隙間から、まるで人形のように端正な顔立ちの美人が顔を覗かせる。
心臓が大きく跳ねたような感覚がした。両目を見開いて現れた人をよく見る。僕はこの人を知っている。だって、この人に会うために、僕はここに来たんだから!
「ルチル様!!」
先程まで茶髪ヤンキーに怖い目に遭わされていた事も吹っ飛んで、僕は扉から出てきた憧れの人に駆け寄った。
写真で見た着飾った姿とは違い、色素の薄い長い髪は大きな帽子の中にまとめられ、茶色のつなぎと白い長袖Tシャツに身を包んでいる。しかし、本物はどんな姿をしていても素晴らしいもので、写真で見るよりもずっと、本物の方が素敵だった。
ルチル・ラドライト。
マスターを目指すメイカーでこの人を知らない人は居ないだろう。
ファンシードール製作の第一人者で、その感情豊かな造形を持つドールを求めて遠方からはるばるルチルの工房「メレーホープ」を尋ねる人も多いらしい。三大マスターの一人「灰色のドールマスター」と呼ばれる、ドール界のカリスマ的存在なのだ。
ちなみに、ルチル様のファンクラブなんかもあったりする。僕は情けないことに会費を払えるほどお金がないので、ファンクラブには入っていない。
「ぼ、僕、ルチル様に憧れて! え、えと、はは初めまして!! 弟子にして下さい!!!」
「……お客さんでは無かったようですね」
そう呟いたルチル・ラドライトの声は平坦で、顔色も無表情のまま全く変化しなかった。
そして、続いて発せられた言葉は
「私は弟子をとるつもりはありません。帰りなさい」
明確な拒否の言葉だった。