Hardhat
貝塚は、河原に動くなと言い、梅野には現場に戻るよう言った。集合場所を辿られるよりは、現場で捕まってくれた方がトラブルは少なくて済むと思っての判断で、実際それが功を奏し、問題は六年間先送りされた。
貝塚は倉庫の中にビッグホーンを入れると、エンジンを止めた。梅野が『轢き逃げ犯』として捕まり、相手方との会話が始まったときは、紛失したハイパワーを探すことばかり考えていた。この集合場所へは、用心して近づくこともしなかった。河原が指二本で責任を取り、その矛先が梅野に向きかけたとき、梅野が申し訳なさそうに言った言葉は、今でも忘れられない。
『ちょっと、相手方とお金の話になってて』
カタギの人間と深い接点を持つ人間は、下手に狙えない。そうやって梅野は、自分の時間を買った。小学生の家族に補償を続けることで自分に火の粉がかからないようにしたのは、中々うまい手だ。ただ、詰めが甘いことに、それが終わったら自分のことは皆忘れてくれると、決定的な思い違いをしていた。
車内が静かになったところで、河原が後部座席を振り返ると、言った。
「どやった?」
「えーっと。みんな住んでます。僕が轢いた良太くんもいてるし、ご両親も店やってました。上の子らも実家暮らしぽいですね」
梅野がすらすらと言うと、河原は振り返った。
「全員、同じ家に揃ってんやな?」
「はい。あの、どうするんすか?」
貝塚がようやく振り返り、河原の容赦がなさすぎる表情を中和するように、深いしわの刻まれた顔を歪めて笑った。
店は、九時に閉まる。新一とかなえは通用口側から家に戻った。業務用のシンクで手を洗った新一は、同じく手を洗って二階へ上がろうとするかなえに、言った。
「お前、休みの日のスーパー、辞めたいやろ?」
「わたし? まあ……」
「おれは、もうちょっと違う仕事がしたい。トラックは手っ取り早いけど。これずっと続けててもしゃあない気がしてな」
「わたしも、辞めてほしいよ。あと、もちろんスーパーは辞めたい。でもな、そんなん言うて、どうにもならんのちゃう? 少なくとも今は」
かなえが言うと、新一は肩をすくめた。
「今は、そうやな」
「もしかして、当たり屋マジでやったらいいって思ってる? お父さんに受け身の練習さす気?」
「よう仕込まんわ」
新一はそう言って、リュックサックを降ろした。それが合図になったように、かなえは二階へ上がっていった。それが『あうんの呼吸』なのか、厄介な会話からの解放なのかは、正直分からない。家族の思い出は、在庫品や段ボール箱とごちゃ混ぜになっている。二階の押し入れに入っているものもあるが、そっちは保険関係の書類だったり、窓口に電話すれば取り寄せられるものばかり。家族旅行とは無縁の家庭だったが、それでも合間を見て撮りためたデジカメの写真はこまめに印刷され、アルバム一冊分ぐらいはある。それとかなえの中学校の卒業アルバムは、野菜のイラストが描かれた段ボール箱の中だ。自分の卒業アルバムがどこへ消えたのかは、もう覚えていない。もしかしたら似たような段ボール箱に入れていて、間違って捨てたかもしれない。頼本家の私物の扱いは得てして雑だが、唯一の例外は『ナツ』と書かれた箱で、ここには夏也の宝物が入っている。それは父から受け継いだ野球グッズ。頼本太郎は、野球少年だったわけではない。だからミットやスパイクといった実用的な物はないが、その代わりにトレーディングカードやシールに古い雑誌、DVDが入っている。無地の段ボールに名前を書いただけだが、それが父から子へ受け継がれた証のようで、どこか誇らしげだ。
新一は、目当ての段ボールの中へ詰め込まれたアルバムを取り上げた。中には、要らないものもあるだろう。例えば、ずっしりと重い小包。いつからあったのかは知らないが底に置いてあり、二度と開く気がないようにガムテープが白い紙の上へ何重にも巻いてあった。じっと見ていると、二階へ上がっていく足音が微かに聞こえて、新一は言った。
「良太か? 夏也―? まあええか」
諦めると、新一はアルバムを開いた。そんなことを何度も確認している時間があるような人生は、送っていない。
河原が後部座席の右側に丸められた毛布を引っ張り、その埃っぽさに梅野が顔をしかめたとき、ホームセンターで買ったばかりの漂白剤のボトルが傾き、二本の包丁の上へ音を立てて倒れた。梅野は目を丸くした。
「なんすかこれ」
「聞く前に、いっぺん自分の目で見ろ」
河原は呆れたように笑った。梅野は素直に、包丁のラベルを読んだ。
「職人仕上げっすか。よく切れそうですね」
「お前、ハイパワーはどこにやった?」
貝塚が口を挟んだ。河原が会話の場所を空けるように静まり、ビッグホーンの車内が凍ったように動きを止めた。梅野は六年前に引き戻されたように瞬きを繰り返すと、言った。
「え? あの荷物ですか?」
「そうや。リアボックスに入ってた。運んでる途中にガキを轢いてバイクをこかした。ここに着いたときは、中には何も入ってなかった。で? どこにやった?」
その口調に、河原は第三者でありながら気配を消すように唇を噛んだ。貝塚は、決して威圧的な見た目ではない。河原が初めて会ったときの印象は、『それなりに体は動きそうだが、見た目は枯れ木』という失礼なものだった。それからの数年の付き合いで何度か逆鱗に触れ、そうなる直前に貝塚が答えようのない質問をするということを学んだ。
「それが分からんから、ヤバいことになってんすよね」
梅野がそう言って、貝塚と河原の両方が視界が入らない空間に視線を泳がせたとき、貝塚が体を伸ばして梅野の首を掴んだ。その骨ばった手からは想像もつかないぐらいの握力が、骨と気道を同時に締め上げた。足が出せず、腕を振ろうとしてもヘッドレストが邪魔になって手が届かない。梅野が窓に肘を思い切りぶつけて鈍い音を鳴らしたとき、貝塚は言った。
「見つけろ」
梅野はすぐにうなずいたが、貝塚は十秒間、手を緩めなかった。河原は、貝塚の様子を見ながら、ひとつの可能性を頭に浮かべた。それは、自分が知らされていないだけで、貝塚が陥っている状況は想像よりもはるかに悪いのではないかということ。だとしたら、この仕事が完了しなかったときは、貝塚だけではなく自分も同じように『始末』されるのかもしれない。しばらくの間、梅野の咳き込む音だけが車内に響き、貝塚は自分の手がやったことが意思とは全く関係がなかったように、静かな口調を取り戻して言った。
「その、良太くんやったか? 明日、直接聞いてこい」
「分かりました」
梅野は呼吸のペースを取り戻しながら、うなずいた。貝塚は急いでいる。いや、急がされているのだ。雲を掴むような話のはずだが、掴めなかったら死ぬのかもしれない。河原が急に静かになったのは、それを今悟ったからなのだろうか。この古くさい車の中に座る三人は、特大の首輪をつけられている状態なのかもしれない。車に意識が向いたとき、梅野は言った。
「この車、ドラレコついてます?」
「ついてるように見えるか? 」
貝塚が笑いながら言い、河原が気配を消すのをやめた。