Hardhat
新一の言葉を聞き、梅野はビッグホーンに戻って後部ドアを開けた。毛布がだらしなく広がっているが、包丁は見当たらない。おそらく河原が持って行ったのだ。家には、全員が揃っていたとしても晴代、良太、夏也の三人。河原と包丁の相手ではない。梅野は車内を覗き込みながら、荷物を探るふりをしてスマートフォンを取り出すと、河原に『家。野菜の段ボール』とメッセージを送った。
かなえは、ようやく電話口に出た晴代に言った。
「もしもし、ごめん電話に出れんで。ちょっと言い切れんぐらいのことが起きたけど、新一は無事です。お父さんがちょっと怪我したかも」
電話越しだったが、晴代が手近なものにしがみついて座ったのが、音で分かった。かなえは続けた。
「事故になったから、うちらはこっちに残ると思う。場所送るから」
かなえがそう言ったとき、太郎が立ち上がり、梅野がいるビッグホーンの方へ歩き出した。隣に立つと、太郎は言った。
「運転手は?」
「逃げました。足が速いですわ」
梅野が自分の責任のように頭を掻きながら言うと、太郎は小さくため息をついた。
「昔からの知り合いか?」
「いえ、今回初めて組んだんですけどね」
かなえは二人の会話を聞きながら、横転したままのビッグホーンを眺めた。電話の向こうでは、夏也が電話を代わってくれとせがんでいるらしく、心配そうな晴代の声に、高めの声が混じっている。ようやく電話が晴代から夏也の手に移り、かなえは言った。
「ナツ、どうしたん?」
「さっきから、僕がかけててん。姉ちゃん、この電話番号に車の写真送ってほしい」
「どうやってよ。あんた、固定電話やんか。帰ったら見せるから」
かなえが笑いながら呆れたように言うと、夏也は電話の向こうで納得がいかないように唸っていたが、ようやく言った。
「その車、後ろに55のシール貼ってない?」
かなえは、目の前でひっくり返るビッグホーンのテールゲートを見た。逆さまになっているが、スペアタイヤカバーの下端に夏也が言ったとおりのステッカーが貼られている。
「あるよ……、なんで?」
かなえが短く言うと、夏也は言った。
「六年前に、良くんが事故に遭ったときな。その車、夜に家に来たと思う」
目の前の景色から切り離されたように、かなえはその場に立ちすくんだ。新一が表情の変化に気づいて歩み寄り、隣に立った。かなえは、耳に入ってきた情報が梅野の言葉とぶつかり合うのを感じながら、言った。
「ナツ、なんで知ってるん? 起きてたん?」
「起きてた。裏にあの車が来て、男の人が大事な物を探してるって」
かなえは新一の顔を見て、言った。
「運転手は逃げたん?」
新一はうなずいた。遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきて、太郎と梅野が道路の先に視線を向けた。かなえが相槌を打つのを忘れていると、夏也は言った。
「大事なものを返さんかったら、いつか一番大事な物を取りに来るって。そんなことを言うてたと思う。だから、それやったら先に大事な物あげとこうと思って、こっそり車にシール貼ってん」
当時、夏也は四歳だったはずだ。かなえはどう応じていいか分からず、新一に小声で呟いた。
「この車、六年前に家に来てるみたい。運転手は、小包の持ち主かも」
新一が動き出し、かなえは夏也に言った。
「ナツ、ありがと。今って家?」
「うん、店はお母さんが閉めてもうたんやけど。家計が心配」
「お母さんに代わって」
かなえがそう言ったとき、新一は太郎の傍まで行くと、小声で言った。
「親父、梅ちゃんがここにおったら、当たり屋の件をしゃべるかもしれん。小包を返すゆうて、こっから離れさせたい」
太郎はしかめ面を作ったが、サイレンの音と天秤にかけるように少し考え、うなずいた。
「そうやな」
そのひと言で次にやるべきことが決まり、新一は梅野を手で呼び寄せて、言った。
「歩ける? 今から家行くで。例の小包返すわ」
「いや、警察来るから」
梅野が苦笑いを浮かべると、新一はその頭を掴んで力任せに引いた。
「来い」
かなえは、受話器を交代した晴代に言った。
「お母さん、みんな近くにおる?」
「おるよ。かなえ、新一もお父さんも、そっちにいてる?」
晴代は少し声を落として言った。かなえは反射的にうなずいたが、少し遅れて声に出した。
「うん。三人ともいてるよ」
「いや、家の中にな。もうひとりおるような気がして」
かなえは、背筋に電流のような寒気が走るのを感じた。新一が梅野の背中を押しながら歩き始めているところへ走って追いつきながら、晴代に言った。
「逃げて。今すぐ」
貝塚は、連絡用のスマートフォンが光ったことに気づいて、日が傾き始めた倉庫の中で、メッセージに目を通した。河原からで、『回収の目処が立ちました』と書かれていた。忠実な猟犬。指が二本欠けている以外は、文句のつけようがない。食べだすと止まらないという悪癖はある。しかし、おおむね上手く進んでいる。ハイパワーが手元に返ってきたら、それで終了。河原は梅野の体に六年分の恨みを晴らし、実際包丁でどれだけ人を捌けるかは分からないにしても、時間は十分に与えるつもりだった。
気がかりなのは、ビッグホーンの現在地が、さっきから港の近くで止まったままになっていること。『目処が立った』ということは、受け渡しの最中というわけでもないらしい。貝塚は、ホームセンターで買った二本の包丁の内、倉庫に残された一本の封を切って、柄を掴んだ。最後に人を刺して殺したのは、十五年も前だ。もしかしたら、今日久々にその腕を振るうことになるかもしれない。
河原は、裏口から頼本家の敷地に入った。六年前に来たときのことは、今でも覚えている。小さな子供が、暇そうに駐車場でバットをスイングする仕草をしていた。門は閉まっておらず、河原が足を踏み入れても、子供は何も持っていない手でバッターボックスに立っていた。殺せば大騒ぎになると思い、子供がついに気づいて振り返ったときには、積荷の回収は諦めていた。少なくとも六年前の事故の時点から、この家のどこかにあるということは分かっていたし、結果的に勘は当たっていた。
『いつか、一番大事な物を取りに来る』
あの少年は、六年が経って成長しているだろう。できることなら出くわしたくない。今回は事情が違うのだ。六年前に約束した『いつか』が今なのだから、もう次はない。目に触れた人間は残らず、新品の包丁で殺すことになる。ただ、頭が割れそうに痛むこの状態で、どれだけのことができるかは、正直分からない。
河原は、一階の薄暗い物置でひと息ついて、顔をあちこちに振り向けながら、段ボール箱を探した。懐中電灯があれば一発で探せるが、注意を引いてしまう。暗さに慣れてきた目を何度か瞬きさせて、河原は物陰から出ると、乱雑に置かれた段ボール箱の側面に野菜の絵を探しながら、静かに歩いた。自分のものとは別の足音がばたばたと鳴ったとき、今までに何度もやってきたように、逆手に持った包丁を背中側に隠して、顔を上げた。
良太は、右手を隠すようにしている大柄な男と目が合い、晴代と夏也に向かって叫んだ。
「逃げて!」