Hardhat
今は、その話を再開するタイミングではない。梅野はそう思いながら短く答えたが、相槌の短さに不満を漏らすように、ビッグホーンが唸って加速を始めた。河原はシフトレバーを二速に入れて、言った。
「おれは、当たり屋の心理が分からん。自分の体が一番大事やからな」
河原の言葉に応じるようにビッグホーンが加速を続け、三速に上がったとき時速は五十キロに達した。河原は続けた。
「まあええわ。がーんっていったろか」
高い建物に反響するエンジン音が聞こえてきて、新一はコンテナの後ろ側にできた隙間から、道路の様子を窺った。真正面からは当たらずに、車の動く方向とは逆に飛ぶ。それだけだ。新一は、スマートフォンで写真を再度確認すると、すぐにポケットへしまい込んで、待ち続けた。まだ姿は見えない。エンジン音が甲高くなって急速に近づいてきたとき、新一はそれが自分が見ているのとは逆の方向から鳴っていることに気づいて、振り返った。目の前で車体を傾けながら急停車したアクティから太郎が飛び降りて、駆け寄りながら言った。
「新一、やめんか!」
「何をや!」
新一が思わず言い返すと、太郎はコンテナに磔にするように新一の体を押さえた。かなえが助手席から降りて、一緒に新一を押さえようと腕を伸ばしたが、自分の力は全く足しにならないと悟って、辺りを見回した。新一が抵抗する力を緩めると、太郎はそのまま地面に座らせて、ようやく手を離した。
「動くなよ」
新一は歯を食いしばったまま太郎を見上げていたが、忘れていた呼吸を取り戻すように細い息を吐くと、言った。
「肝心なときに邪魔すんなよ」
太郎は首を横に振った。新一はその表情を見たとき、自分が子供に逆戻りしたように感じた。少なくとも、そのような目で見られたことは、ここ数年なかったように思う。太郎はその表情のまま、言った。
「この家で車に轢かれてもええんは、おれだけなんじゃ!」
父親に怒られるというのは、こういうことだった。それを思い出した新一は、完全に諦めたようにコンテナにもたれかかると、頭を預けた。
「見つかるとは思わんかったわ。超能力でもあんの?」
「電話越しに、チャイムの音が聞こえた」
太郎は言うと、自分がかつて働いていた倉庫を目で指した。四時にチャイムが鳴ったら、晴代は化粧直しを始める。それなりに働いていた、適当な人間たち。新一が生まれてからはその適当さを消したつもりでいたが、根の部分にはそれがいて、少しずつ家族を喰い始めていた。
新一はスマートフォンを取り出した。
「中止って言うわ」
太郎はうなずき、斜めに止まったアクティに乗り込むと、茶碗にサイコロを振り込んだような音を鳴らしながら転回させた。かなえは新一に手を差し出した。
「長男。家に帰ろ」
新一がかなえの手を取って立ち上がったとき、急ブレーキの音が反響した。時速六十キロで走っていたビッグホーンはアクティの後部にめりこむように追突し、大きくバランスを崩して横転した。そのまま雑に投げられたミニカーのように一回転すると、ガラスの破片をまき散らしながら、屋根を下にした状態で動かなくなった。新一とかなえは、コンテナの裏から飛び出して、倒れた本棚のように部品を散乱させて横たわるアクティに駆け寄った。太郎は頭から血を流しながら、横倒しになった車内で体勢を立て直し、フロントガラスを力任せに蹴った。新一が反対側から引っ張ると、枠から抜けたガラスが前へ飛び出してきて、その勢いにかなえは後ずさった。ようやく車外に出た太郎は、体の機能ひとつひとつを思い出しているようにぎこちなく立ち上がり、横転したビッグホーンの方を向いた。
「前方不注意やぞドアホ」
「親父、あの車がそうやねん」
新一は、死んだ虫のようにひっくり返ったビッグホーンを眺めた。太郎は言った。
「あんなスピードで轢かれたら、死ぬぞお前」
新一は、全体的に歪んだアクティの車体を眺め、自分が飛び出していたらどうなっていたかということを、想像した。
「もっとゆっくりやと思ってたわ」
河原の急ブレーキは、明らかに遅かった。梅野は上下逆さまになった車内で、シートベルトのボタンを探った。すぐに指先が触れてボタンを押したとき、支えを失った体が地面に勢いよく落ちて、細かく散ったガラスの破片が腕に食い込んだ。緩やかな左カーブの途中だから、力いっぱいブレーキを踏めば横転する。河原は、そのことが分かっていたから加減したのだろう。それにしても、何もかもが打ち合わせと違った。新一がコンテナの裏から飛び出してくることはなく、代わりに軽自動車が停まっていた。そして最悪なことに、こちらは屋根を下にして横転した。それでも、河原の動きは速かった。危ない仕事で、何度も同じような目に遭っているのかもしれない。シートベルトを外そうともがいている間に、河原はいち早くドアを蹴り開け、隙間から抜けていった。
このまま車外に出たら、運転していたのが自分だと勘違いされかねない。梅野がそう判断して、少しでも楽な姿勢を模索し始めたとき、新一が駆け寄ってきて車内を覗き込んだ。
「速くない? 仕事仲間は?」
「逃げた」
梅野はそう言うと、助手席から滑り出した。太郎は警察に電話をかけて話をしていたが、梅野の姿を見ると、血まみれの頭を一度振った。梅野の顔を見たかなえは、スマートフォンに残っていた不在着信を思い出して、店に電話をかけた。太郎が通話を終えて、パトカーのサイレンを待つように宙を見上げたとき、傍に来た新一が言った。
「六年前の話やけど。良太が事故に遭ったとき、梅ちゃんが運んでた荷物を持って帰ったらしい。今も家にある」
新一の後をついてきた梅野は、説明に歩調を合わせてうなずいた。そして、新しい事実を頭に刻み込んだ。写真では車のシートの上に置いてあるように見えたが、『積荷』は家の中だ。梅野が情報をかみ砕いていると、新一は太郎に、今までに起きていたことを説明し続けた。新一が話し終えると、太郎は目に入った血を追い払うように忙しなく瞬きを繰り返して、言った。
「良太からも聞かせてもらった。その荷物ってのは、中身はなんやねん」
新一の視線を感じて、梅野は首をすくめた。
「僕も中身は知りません。当時は、そういう仕事をしてたってだけで」
言いながら、梅野は考えた。このまま家に戻って『積荷』を見つけ、返されたとする。だとすれば、それを持っていくのは自分だ。警察に一切知られることなく、貝塚の仕事は完了することになるだろう。それではだめだ。貝塚は仕事が完了すれば、河原に自分を殺させるはずだ。とにかく、見つけるのが自分であってはならない。
「後で取りに伺っても、いいです?」
梅野は敢えて、太郎に言った。その後に続く言葉は予測できた。太郎は、新一に言った。
「分かった。どこにあんねん」
「野菜の段ボール。アルバムとか入ってるとこ」