Hardhat
「何がお願いしますじゃ。お前、案内せえよ」
「はい」
梅野は電話を切った。もちろん、横に乗っていないと始まらない。生き延びてきたベテランでも、頭の出来は平均以下。一歩引くような仕草を見せれば、力ずくで引っ張り込もうとする。貝塚は昔かたぎだから、尚更だ。ファンタを飲み干して空き缶をゴミ箱へ押し込むと、梅野はコンテナから百メートル離れた地点まで歩いた。雑草が伸びつつある駐車場跡。ここで待ち合わせをすれば、コンテナ前ではまだ速度を落としていないはずだ。河原が来るなら、手足を折るぐらいの事故にしないといけない。貝塚なら、また違う手を考える。単純だ。
自分が足を抜くための選択肢は、まだ残されている。
−−−
「河原、あんま飛ばすなよ」
貝塚はマルボロの煙を宙に吐きながら、言った。河原は、防音材を窓に貼り終えて、コンクリートの床にビニールシートを敷いているところだったが、中途半端な姿勢で動きを止めて貝塚の方を見上げると、うなずいた。
「はい」
「虻蜂取らずになるぞ」
「あぶはちって、何すか?」
河原が訊き返すと、貝塚は笑った。
「もうええわ」
朝十時。時間は余っているぐらいだ。日が落ち始めるより前に梅野を拾って、港湾道路の駐車場跡で『積荷』を受け取る。帰ってきたら、ビニールシートの上が梅野の終点となる。ビッグホーンの後部座席に座ったとき、二本の包丁を見て驚いたに違いない。それが自分を殺すための凶器だと知っていたら、あの場で車から飛び降りてでも逃げていただろう。貝塚がビニールシートの端をぴんと張ると、河原はビッグホーンの運転席に乗り込んで、座席を合わせた。
「背、高いですね」
「古い車やからな、手加減したれよ」
貝塚はそう言って、笑った。いい加減にメンテナンスされた、骨董品のような車。その車体にはへこみや傷が無数にあり、スペアタイヤは乱雑に貼られたステッカーの墓場。その佇まいは、どことなく貝塚と合っている。河原は運転席に深く腰かけて、クラッチを踏み込んだ。昨日の夜、どうして梅野はこの車の写真を撮っていたのだろう? いつもの癖で貝塚にその理由を考えてもらおうとしたが、直感がすんでのところで押しとどめた。その辺をごろごろ走っている車ではないが、梅野は珍しいからといって車の写真を撮るような人間ではない。何か理由があるのだ。貝塚が煙草をくわえたままコンビニのパンを電子レンジに放り込む姿を眺めながら、河原はドアを閉めた。周りの音が遮断され、埃が波打つ車内に窓から帯状の光が差し込んだ。梅野の行動には明確な動機がある。それが何かは分からない。しかし、直感が伝えている。貝塚には言わない方がいいと。河原は『動くな』と言われた六年前のことを思い出していた。運び屋が事故を起こしたから、定刻には来ない。来たら来たで、今度は『積荷』がない。貝塚は事故現場に出向き、轢き逃げ事件として処理されていることを知ると、『上に説明してくる。絶対動くなよ』と付け加えた。
手元には、自分が乗ってきたスプリンターと、このビッグホーンがあった。梅野は出頭させたから、倉庫にはひとりだった。梅野から相手が『バラエティショップよりもと』の家族だと聞かされたころには、もう夕方になっていた。この仕事で初めて起きた『不測の事態』。じっとしているというのは、到底無理な相談だった。今だって、同じことをするだろう。貝塚の指示を破ったのは、このときの一回だけだった。ビッグホーンを使って、商店街に出向いた。裏口に回り、事故の相手がもし戻って来ることがあれば、話を聞く。単純にそう考えていた。もちろんうまくいくはずもなかったが、梅野がもしそのことを知っているとしたら、貝塚に『チクる』機会を窺っているのかもしれない。
スーパーに出勤する準備を整えたかなえは、寝起きの新一と良太、そして夏也が食卓でパンを食べているのを見て、笑った。
「ステイホームしてんの? 良太、イチくんは?」
良太はたいてい、市川と遊びに出かける。夏也は家で遊んでいることが多いが、三人揃っているのは珍しいことだった。
「今日は約束してない」
良太はそう言って、パンをひと口かじった。かなえは、冷蔵庫からアイスコーヒーのペットボトルを出して、テーブルの真ん中に置いた。
「喉詰まるで、なんか飲みや」
「姉ちゃん、民主主義って信じる?」
突然夏也が言い、良太と新一が顔を見合わせて笑った。かなえは肩をひょいとすくめると、アイスコーヒーをひと口飲んでから出るか迷ったが、先に夏也の質問に答えた。
「まあ、問題はあると思うけど。独裁よりはいいかな」
「分かりました」
夏也が納得したように口をへの字に曲げて、うなずいた。かなえはできるだけ小さくまとめたリュックサックを背負うと、一階へ下りていった。レジの後ろにいる太郎が立ち上がり、客と世間話をしている晴代が振り返った。かなえは目だけで晴代に『いってきます』と言い、太郎の方を向いた。
「いってきます、どうしたん?」
「かなえ、上で新一とかが集まってるんやが、なんかあったんか?」
「分からん。男同士で話したいんちゃう?」
かなえは分からないなりに言ったが、太郎はかなえの答えに期待を寄せていたようで、今までに自分がやってきたこと全てを悔いているような暗い表情で言った。
「ちょっと聞いてくるわ」
「やめたほうがいいよ」
考えるよりも先に言葉が飛び出し、かなえは自分の言葉に気圧されたように一歩引いた。太郎も同じように驚いた表情を浮かべたが、かなえは先に真顔に戻って、続けた。
「今さら、どうにもできんと思う。お店のことは分かっても、わたしらのことはあんまり知らんやん」
今だって、アイスコーヒーを飲むのを諦めるぐらいのタイミングで、降りてきているのだ。かなえは会話を無理やり断ち切るように歩き出すと、裏から出て自転車の鞄にリュックサックを乗せた。
ちょうど時計が正午になったとき、河原はビッグホーンに再び乗り込んで、エンジンをかけた。昼飯と移動、梅野を拾う時間を入れれば、ちょうど夕方になる。貝塚は簡易ベッドの上で昼寝をしており、倉庫からビッグホーンを出した河原は、貝塚がたまに使う『果報は寝て待て』という諺を思い出した。果報になるのかは、まったく予想がつかない。『積荷』を無事回収したら、この馬鹿騒ぎは終わる。そう期待しているが、計画の通りに進むかは分からない。六年前も、貝塚は『小指だけやろ』と言ったが、実際には薬指も失うことになった。事あるごとに、貝塚が口に出すことわざは、全部意味を調べてきた。なるほどと感心し、助けになることもあったが、指は守ってくれなかった。
どうして、受け渡しが必要なのか。物流倉庫が並ぶ地域を移動しながら、河原は考えた。梅野が受け取ればそれで済む話なのに、どうして取引のような形にしたのか。細かく打ち合わせをする時間はなかったし、貝塚は梅野を動かして、とにかく事態を収拾させたがっている。梅野にメッセージを送り、三時半に拾うことを一方的に伝えると、河原はラーメン屋に入った。