Hardhat
あの後、盗み聞きしていた場所から静かに出て行き、草や砂利を払った。冷や汗が全身に膜を張ったようになって、駐車しているトラックの窓に顔を映して、表情を確認した。貝塚と河原は、そういう微妙な変化を嗅ぎ分けて今まで生きてきた人間だ。特に貝塚は五十歳で、この仕事を始めたのは十八のときだ。三十年以上その緊張感を保つのは、並大抵の努力ではできない。そう思ったからこそ、できるだけ時間をかけて身だしなみを整えて、今まで道草を食っていたような気楽な表情で入った。しかし、河原の第一声は『幽霊でも見たんか』で、貝塚は『いっぺん、ちゃんと休んだ方がええな』と言った。それで簡易ベッドが用意されたのだが、場違いに快適な環境でこうやって横になっていると、自分の残り時間の少なさが逆に際立ってくる。道筋はつけた。良太はあの『積荷』を探して、早ければ明日持ってくるだろう。もしかしたら探し物をする過程で、家族に聞くかもしれない。そして、中身を見るかも。悪い風に取ればキリはないが、唯一取れる方法なのだから、失敗する可能性ばかり見ていても仕方がないだろう。それで警察を呼び込む騒ぎになったとしたら、おそらく三人とも水の底に沈む羽目になる。その理屈は分かる。しかし、上手くいったとしたら、貝塚はひと仕事終えてさっぱりした顔で倉庫から出て行き、自分は河原の好きなようにされる。六年越しにどんな目に遭わせることを考えているかなんて、想像したくもない。そうすることでまた指が生えてくる見通しがあるなら理解できるが、人間の体はそんな風にはできていない。失ったものは、失われたままだ。だからその傷を癒すために保険があり、補償がある。時には癒し過ぎて、それが病みつきになることも。そこまで考えたとき、梅野は夏也に言われた言葉を思い出した。
『うまいことぶつかってくれる人』
バス停で話した内容は、これからも頭に刻まれたままで、消えることはないだろう。あの小柄な小学生が、自分で『当たり屋をする』と言ったのだ。梅野は簡易ベッドから体を起こした。寝違えたように痛む首の付け根を押さえながら倉庫を見回したとき、河原が段ボールの上で寝返りを打った。
六年生き延びることができたのは、轢き逃げ事件として警察が介入したからだ。バイクも、地面に落ちた破片も、梅野自身も全て、警察のポケットの中へ突っ込まれた。ありとあらゆる証拠が集められ、次に誰かが下手なことをすれば、警察は助走付きのスタートを切ることができる状態になった。そういう意味では、良太がとっさに『積荷』を隠したあの行動は、気の利いた仲間のように素晴らしい動きだった。梅野は完全に起き上がると、スマートフォンを取り出した。ビッグホーンの後部に回って写真を撮ると、次は前に回った。特徴的な四角の黄色いフォグランプにピントを合わせて二枚目を取ると、河原が寝返りを打ちながら大きな咳ばらいをしたのが合図になったように、ベッドへと戻った。つまりはこういうことだ。この二人を遠ざけるには、また警察のお世話になればいい。ビッグホーンには、ドライブレコーダーがついていない。そして夏也は、打ち合わせ通りに自分から飛び出すつもりらしい。問題は、ハンドルを握ることができるのは、貝塚と河原の内ひとりだけだということだが、それは仕方がない。
それより心配なのは、夏也が警察に色々と話すことで、実は当たり屋だということが分かり、こっちの足元に火が付くということ。そんなことになれば、本末転倒だ。
だから、必ず死亡事故でなければならない。
−−−
深夜二時、良太は静かに一階へ下りると、細く息をしながら懐中電灯で物置を照らした。雑多に置かれた段ボール箱や、何かのときに使ったビーチパラソル、土台が錆びて使えなくなったホットプレートが、射すくめられたように光を跳ね返した。梅野には探すと言ったが、いざ取り掛かると、どこから探していいかが分からない。ランドセルの中には置いておけないと思って、物置に隠したのは覚えている。その後でまた病院に行くことになって、医者にどこが痛むか聞かれたり、レントゲンで真っ白に透けた自分の骨の写真を見たりしている内に、忘れてしまった。ただ、白い包みだったということは、今でも覚えている。頼りになる記憶はそれだけで、自分の家なのに知らない建物を探索しているようだった。八巻から十七巻までが積まれた漫画の隣に置かれた薄い段ボール箱から順に、良太は中を照らしていった。順調に中身の確認をしていると、外で車が停まるときのブレーキ音が鳴り、思わず懐中電灯を消した。家に迷惑をかけたくない。その考えは、バイクが覆いかぶさってきた六年間の事故のときから、変わっていない。新一とかなえが大変な思いをしているのは、身に染みて分かっているつもりだった。市川には、かなえに彼氏がいないことを茶化すように言ったが、そもそもかなえには、そんな時間がない。良太が懐中電灯を点けたとき、光の先に靴の端が見えて、良太は飛びのいた。
「良太、えらい夜更かししよんな」
新一が光に目を細めながら言い、良太は懐中電灯を下げた。ハンズフリーのイヤーピースが青く光っていて、宇宙人のように見えた。会社指定のブルーのラインが入った作業着姿で、腰に巻いたベルトには伝票を打ち出すための機械やポーチが隙間なく並んでいる。
「兄貴……、仕事どないしたん」
良太が言うと、新一は懐中電灯を消すよう仕草で伝えた。良太が言われたとおりにすると、真っ暗に戻った中、新一は答えた。
「ちょうど、家の前通るルートに当たったからな。様子見に来た。ナツは寝てるか?」
「寝てると思う。いや、あいつは分からん。こっそり起きてるかもしれん」
新一は笑った。夏也の行動は誰も読めない。だから帰ってきたのだ。かなえは間違いなく起きている。商店街側から見上げたとき、窓から細く煙草の煙が上がっているのが見えた。
「良太、ナツと梅ちゃんは、今日会ってたか?」
「うん、イチが店まで一緒に帰ってきて、言うてた。なんか怪しい奴としゃべってたから引き離したって。その前に、おれも話しかけられた」
良太はそう言いながら、気づいた。真っ暗で相手の表情が窺えないと、言ったらまずそうなことの区別がつかなくなる。新一は言った。
「梅ちゃんに、なんかお願いされた? ちょっとな、ナツも色々事故のことを知って、こんがらがってきてんねん」
新一が言うと、良太は懐中電灯を点けて、段ボール箱を照らした。
「おれ、家族に迷惑をかけたくない」
「迷惑? 何を言うてんねん」
新一が言うと、良太は懐中電灯を振った。乱雑に置かれた段ボール箱に顔を向けたまま、言った。
「バイクに轢かれたときも、おれのせいで大騒ぎになるって思った」
「事故やろ。誰からどう見ても、お前がバイクに当たられたって事実は変わらん」
新一は、自分の頭の中にある考えをどうやって表現していいか分からず、代わりとして出てくるのは、あまりにもお粗末な言葉だけだった。その表現力の無さに絶望しかけたとき、新一はふと思いついて言った。
「事故自体、なかったことにしようとしたか?」
懐中電灯の光が微かに跳ね返っている中で、良太の表情が少しだけ曇ったのが分かり、新一は俯いた。良太は言った。